お母たまと私 -母と娘の脳卒中リハビリ日記 外伝-
2004年2月に脳卒中(脳出血) で倒れ右片麻痺になった母と私の七ヶ月間にわたる リハビリの記録と、それからの事。
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リハビリ専門病院
2006年 03月 21日 (火) 14:42 | 編集
次の日父は一人で、隣市のリハビリ専門病院を見学に行きました。
地域医療連携室から連絡してもらい
リハビリの責任者に話を聞いてくるとの事でした。

知り合いに、10年以上前に40代で脳出血に倒れ一週間意識が無く
親戚を呼んでおいて下さいとまで言われたのに、現在は外から見る分には
全く健常者と変わらない生活をしておられる男性がいて、その方とご家族に
「PTとSTとOTの数。そしてそれぞれが毎日リハビリをしてくれるのかどうかが重要」
だと私と父は聞かされていました。

帰ってきた父によると
・ かなり大きな病院である。
・ リハビリは1階のリハビリルームでやる。
・ リハビリは基本的に毎日行う。土日祝日は休み。
・ PT18人、OT16人、ST3人。
・ 病室は2人~6人部屋。
・ 事故などによる若い患者も多い(だからなのか自動車の教習コースもある)。
・ 廊下で会った看護婦、スタッフの対応が良くなかった(挨拶をしなかった)。

父の対応をしてくれた担当者はPTの親玉のような人で
忙しいからと一階のリハビリルームで、患者のリハビリをしながらの説明だったそうです。
それに対しては、父は別段不満には思っていなかったようでした。
実際のリハビリの様子も見ることができた、と言っていました。

“ちゃんと地域連携室を通し、予約をして時間通りに行ったのに仕事をしながら?”
会ってもいない担当者とリハ専門病院に、私はちょっと不満を覚えました。
父が不満の、看護婦さんやスタッフの挨拶の話は気になりませんでした。
父の無愛想でエラそうな態度に敬遠されたか
父の気に入るようなバカ丁寧な挨拶では無かっただけだろうと
気にしませんでした。

その次の日父は、今度は実家と同じ市内にある二つの病院に
見学に行くことになりました。


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県内随一
2006年 03月 20日 (月) 14:23 | 編集
三週間目に入った頃には、リハビリ病院の事が気になりはじめ
婦長さんに相談にのってもらいました。

・この救急病院からは基本的に隣の市のリハビリ病院にほぼ全員が転院している。
・隣の市のリハビリ病院は歴史があり、今でも県内随一のリハ専門病院である。
・そのリハ専門病院に入るには、病状データと共に本人を面接に連れて行く必要がある。
・面接は毎週水曜と金曜に行われていて、入院の許可が下りてもいつ移れるかは
 ベッドの空き次第。普通は早くて一~二週間かかる。
・もちろんそのリハ専門病院以外でも行きたい病院があれば、紹介する。
・詳しくは一階の地域医療連携室にて社会福祉士が相談にのる。

私は"本人を連れて面接を受ける必要がある"ことに驚きました。

昼間ともすれば眠くて起きていられなくて、リハビリができなくなる事もある母を
車椅子に座っていること自体が苦痛らしく、すぐベッドに戻りたがる母を
車に乗せて隣の市まで運び、面接を受けさせるなんて。
その上、入院できるかどうかは確実ではないなんて。

リハビリ病院による面接はごく普通の事で
「車椅子に乗れない」「面接を受けられない」「他に病気がある」
患者は、基本的にリハビリ病院には入れず、他の治療重視または療養型病院に行くことになると、婦長さんは説明してくれました。

父がすぐに地域医療連携室に行き、相談してみることになりました。


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お詫びをここで
2006年 03月 19日 (日) 21:14 | 編集
何人もの方から、ぜひ母のお見舞いに行きたいと言われていましたが
救急病院での一ヶ月とその後のリハビリ病院での最初の何ヶ月かは
「まだあまり意識もはっきりしていなくて
 疲れも激しいので、もう少し元気になってから見舞ってやって下さい」
とお断りしていました。

母には一応毎回お伺いをたててはいましたが
母が正確に判断できないであろう事は承知の上です。
私たちが、こんな状態の母を誰にも会わせたくなかったのです。

みなさんは私たち家族のわがままを受け入れて
「最近のご様子はいかがですか?」
「まだお疲れが激しいかしら」
などと、根気良く何度も電話で尋ねて下さいました。
本当に本当に感謝しています。

いくら家族の一大事とはいえ、私は母の友人やご近所の方々に
「来てくれるな」と言い続けていた訳です。

今になって思うと、私たち家族だけで閉じるのではなくて
もう少し早くから母の具合を知ってもらい
一緒に回復を見守ってもらえば良かったのにと思います。

なんだか必死で余裕が無くて
「他の人には分からないわ放っておいて」
とばかりに、凄く狭量になっていたんだと思います。

あの頃、私がした事言った事、色々失礼があったと思います。
みなさまごめんなさい、許して下さい。
そして、これからも母と私たち家族をよろしくお願い致します。


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いちご?
2006年 03月 18日 (土) 20:17 | 編集
婦長さんが、絵本を貸してくれました。
図形や身の回りのものの絵が大きく描いてある、ホントに小さい子供用の絵本です。

○と△と□が描いてあるページを見せて
「四角はどれ?」と聞くと
「*#‘&¥~??」と呟いて、丸を指差します。
「青い色のものはどれ?」
「あ&“%@~っ!」
首をかしげながら赤い丸を指差します。

「言語の方が体よりも時間がかかります」
と主治医の先生から聞いていましたが、その肝心の体の方も
「今日は辞めておきましょう」
とリハビリの先生に言われないように、昼間目覚めていられるように
体調を管理するのが精一杯というところで、何ができるようになった
と言えるレベルではありませんでした。

自転車をみせて、コレなーに?と聞くと
「いぁ@$っ~#゜“~う?*:~っ!!」
ちょっと興奮して、”知ってる、家にある!”と言いたげでした。
でも出てきた言葉は
「いちご?」(私だけにしか解からないけれど、聞き返すと頷いたので、そのはず)

母のしゃべる内容は、救急病院にいる間の一ヶ月間は
私しか理解することができまんでした。
その私にしても判明率は50%そこそこだったので
母は本当にもどかしかったと思います。


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ブラブラ
2006年 03月 17日 (金) 23:12 | 編集
麻痺した右手右足は左側に比べると、腫れていて色も赤黒く変色していました。
おまけにピクリとも動きません。
右肩は脱臼して、触ってみると骨との境が段々になっていました。
麻痺して腕を動かす事ができないと、こうなるのは普通の事だと言われました。

脳出血や脳梗塞で腕が麻痺すると、腕が肘から内側に曲がって
固まってしまう患者さんが多いらしいのですが(「拘縮(こうしゅく)」と言うそうです)
母は逆にダランとしたままで、指先まで完全に弛緩した状態でした。

今となってみれば、脱臼くらいなんて事無いと思えるのですが
その当時は、これからリハビリをしていく上でこれが障害になったらどうしよう。
麻痺していてよく分からないだけで、本当はすごく痛いんじゃないだろうか。
と心配でたまりませんでした。

「三角巾で吊ってもいいですよ」
看護婦さんにそう言われ、売店で買った三角巾でどうにかこうにか
母の右腕を吊ってみました。
小学校の家庭科の時間以来でした、三角巾なんて。
脱臼のためには三角巾はほとんど役に立ちませんでしたが
トイレに座る時、右手がブラブラして股の間にすっぽりハマってしまうのは
防げるようになりました。毎回ちょっと可笑しかったのです。

母は現在も右肩は脱臼したままですし、右手は未だにピクリともしません
三角巾をしていないので、時々トイレで邪魔になるそうです。

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