お母たまと私 -母と娘の脳卒中リハビリ日記 外伝-
2004年2月に脳卒中(脳出血) で倒れ右片麻痺になった母と私の七ヶ月間にわたる リハビリの記録と、それからの事。
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めくってめくって
2006年 10月 31日 (火) 01:28 | 編集
二年前の二月に、母は出先で倒れました。
オシャレをして、いつもと違うバッグを持って出掛けていました。

私たち家族は、いつも母が持ち歩いていたバッグに
とっても用があったのですが
何故かそのバッグが見当たりません。
母が倒れた翌々日、“弟その一”と父と私とで
散々家捜ししたのですが見つかりません。

父は自分の趣味以外の全ての事を、母に任せていたので
お金の事も家の事も親戚の事も
何一つ分かりません。
身動きが取れません。
全ては母のいつものバッグに入っていました。

ちょっと探しても見つからないという事は
母が“念のために隠した”という事なので
ICUで横たわる母に聞いてみました。
倒れてすぐ(一週間くらい)は
意識があるのか、人の言う事が分かっているのか
確信が持てませんでしたが、他に方法がありません。

「いつもの茶色いバッグはどこにあるの」
「…………」
「伯母さんとお揃いのバッグよ。アレが無くて困ってるの。
 どこに隠したの?」
「…………」

起きているんだか、寝ているんだか
意識が無いのか、あるのか
さっぱり分からない様子の母でしたが
話し掛け続けると、左手をなにやら動かし始めました。

体の横に下ろしてある左手を
“あちらへどうぞー”
と案内でもするみたいに、斜め上に上げました。

「うん?上?左?」
「違う部屋?私の部屋かな」
「茶の間の左側の方角って事?」
「まさか二階に隠したのか」
“弟その一”と父と私は
母の枕元で、様々な推理を繰り広げました。

すると母は、目はつぶったまま
口元だけで半笑いのような表情を浮かべて
何度も何度も
“こちらへどうぞー”
を続けます。
どうやら私たちの推理は、全部間違っているようでした。
でも母は喋れないどころか、声も出せないので
これ以上は、どうしようもありません。

その日の夜も、家捜しは続行しましたが
やっぱり見つかりません。
仕方が無いので、母と意志の疎通ができるようになるまで
バッグの捜索は延期にしました。

三人で茶の間に戻り、コタツに入りました。
私もいつもの場所に足を突っ込むと
何かが足に当ります。

「…………???…… あったー!!!」

母はご丁寧にも、コタツの中にいつものバッグを隠していたのです。
“こちらへどうぞー”は
“コタツ布団をめくれ”
というジェスチャーだったのです。

「そうか、あれはコタツ布団をめくれって事だったのか…」
「なんでこんな所に隠すかな、おかしいよねあの人」
「ちょっと笑ってたもんな」
「コタツの一言がなんで言えないかなー」
「言えたらICUにいないから」

母が倒れて三日目くらいだったと思います。
私たち家族は、初めて笑いました。
ホントに人騒がせな母でした。


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悲しいよ
2006年 10月 25日 (水) 00:37 | 編集
母は毎週、月曜日水曜日金曜日にリハビリに通っています。
お友達は皆その事を知っているので
火曜日と木曜日は大抵誰かが
母の携帯に電話をくれるそうです。

今日はご近所に住む
”習い事そのニ”で一緒だったKさんから電話があったもよう。

「Kさんより”習い事そのニ”の先生は
 もう話相手にだけ行くよし
 聞きました 悲しいよ」
 
こんなメールが母から届き
私も悲しくなりました。

この先生は70代後半で
母が入院中も、お弟子さん達(母の友人達)を連れて
二度お見舞いに来て下さいました。
母が退院して最初のお正月には
お年賀として、果物を沢山送ってくれました。

母が倒れる一年位前から
「先生はちょっと物忘れが多くなった」
とは聞いていましたが
少し前までお稽古は続けておられたのに
とうとう、認知症がそこまで進んでしまったという事でした。

母はこの”習い事そのニ”を一番長く
二十年以上やっていたので
昔の若くて可愛かった先生を思い出して
たまらなくなって、私にメールをして来たようでした。

先生は一人暮しだそうです。
ご家族がどこにいらっしゃるのかは知らないのですが
母が倒れて以来、お年寄りが一人暮しだと聞くだけで
私は思わず涙腺がゆるくなってしまうので
こんな話はとってもダメです。

不思議な事に
母が倒れて以来、母や私達家族の周りの人が
次々と亡くなったり病気になったりしています。
『変わらないモノなど、何一つ無いのだな』
と改めて思います。

永遠のモノなど何一つ無いのだから
全ての人を出会いを大切にしていかなければ
としみじみ感じている、秋の夜長です。


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Autumnal Equinox Day
2006年 10月 19日 (木) 10:06 | 編集
お彼岸の日。
母は、私以外の人と初めてのお出かけをしました。

習い事その一で一緒だったお友達のSさんの旦那さまが
趣味で書いている絵の個展を開く事になり
母が作っていた作品も出してもらえないかと
言って下さったのです。

そして、お友達の皆さんも出品するしみんな集まるので
ぜひ見に来て欲しいと。

そのギャラリーは、母の生まれ故郷の街にあり
実家から車で一時間ほどです。
習い事その一で一番仲の良かったEさんが、その街から迎えに来て
帰りも送ってくれるとの事でした。

結果は

「楽しかったよっ」
「行きは○○川の側を通って行ったの」
「△△通りも□□デパートも変わってなかったよ」
「Eさんは運転が上手よー」
「お昼は□□デパートで食べたの」
「私は親子丼食べたよっ」
「Sさんの旦那さんの兄弟も、東京から帰ってきててね~」

“案ずるより産むが易し”でした。

Sさんからお話があった八月の初めから
母はずーっと迷っていました。

「行けるかしら」
 (なんで行けないのさ。バリアフリーなんでしょ!)
「みんなに迷惑かけるかも」
 (それは皆さんも承知の上)
「お父さんが連れて行ってくれるのなら…」
 (それでは楽しくないのでは?)

直前まで、ぐるぐると悩んでいた母でしたが
“お友達とだけで、お出かけしたい”
という欲望が、やっと勝ちました。
(遅いよ母…)

父も当日の朝の
「私はパートで訪問ヘルパーをしているので、安心して任せてください」
Eさんの言葉に、安心したようだったとの事でした。

母は病前、二週間に一回
習い事その一のために、生まれ育った街まで
電車で一時間半かけて通っていましたから
二年半ぶりの帰郷でした。

「黄金色の田んぼ、赤い彼岸花
 いろいろ見けど、俳句は出来そうにないよ…」

母は本当に俳句が苦手のようです。
未だにその時の俳句が送られて来ません。


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あいたたた…その後
2006年 10月 15日 (日) 14:02 | 編集
今週の電話の時間。
母はいたって普通でした。
明るくて、よく笑って、いつもの報告をして
先生に誉められた俳句を読み上げて。

なんだか、キツネにつままれたようでした。
その四日ほど前には、催促して催促してやっと
「私は大丈夫です」
という一行メールが来たのに。

まさか忘れてしまったのかも?
母は、日常生活に支障は無いとは言え
全く記憶障害がないわけでは無いのです。
一年前自分がどんな風だったか
三ヶ月前に私が言った事
などをあまり覚えていないという事があるのです。

うーん…
でもたった四日や一週間で忘れてしまうとは
やっぱり思えません。
母は先週の事を話題にしないと決めたのかも知れません。
それが私のためでもあり、母のためだと思っているのかも。

私はしつこいタイプで、物事をハッキリさせたい方なので
ちょっと迷いました。
「あのね、先週の事だけどね…」
と何度も言い掛けましたが、やめました。
もしも万が一忘れているのなら
また最初から、あのような苦痛を母に与えることになるし
話題にしないと決めたのなら、母の意志を尊重したほうがいいのかなと。

一生聞かないではいられないと思いますが
当分は封印しようかな。
チャンスがあれば、今度のお正月にでも
顔を見て話してみようかな、と思います。

ご心配いただいた皆様、ありがとうございました。
母と娘は、とりあえず元通り
アホアホ電話をする仲に戻れました。


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あいたたた…
2006年 10月 05日 (木) 21:38 | 編集
母と私は毎週、曜日と時間を決めて電話をしています。
大抵一時間くらいです。

今週、私は母を大泣きさせてしまいました。

母からのメールに
「あなたは昔から『ツイてるなー』と思っていた」
と書いてあったため
私の何が「ツイてる」のか「運がいい」のか
という話になりました。

母が「娘はツイてる」と思う出来事たちは
私にとっては
「諦めなかった」
「努力し続けた」
「頑張った」
「よく考えた」
出来事だったため、私はちょっと面白くありませんでした。

その内の一番「逆境にもメゲずに頑張り続けた」
と自分で思ってた出来事について口論になり
その逆境の大部分を作り出したのは両親だったため
「お父さんはあの時、私にこう言った、私にこうした」
とつい、自分ですっかり忘れていたような事を思い出し
母に言いました。

「それは、あなたが考え違いをしていたせい」
「親の心を知らないせい」
「そう思った、そうさせたあなたが悪い」
母がそう言い出したので、ついエスカレートしてしまい
「お父さんだけじゃない。
 お母たまも私に○○と言い、私に△△をした」
と言ってしまいました。

「そんな事を言った記憶は無い」
「私が子供にそんな仕打ちをするはずが無い」
最初は全く信じていなかった母でしたが
「だからそれから、私はこのように困って
 仕方無しにこうやって乗り越えて
 それから○○さんに助けてもらって
 そしてこうなったんだよ。それも覚えてないの?」

その当時の具体例を出すと、ようやく思い当たったらしく
「そんな事がホントにあったかしら…」
「ホントに覚えてないのよ…」
と元気が無くなり、しばらくの沈黙の後
ワンワン泣き始めました。
(なんか前にも書いたな…母を泣かせた話…)

私は本当にびっくりしました。

以前の母なら
「覚えてないわ、あなたの記憶違いよ」
「そんな事があったかしら、もう忘れたわ」
「そんなに傷ついたの?そんなに大変だったの?悪かったわね」
と適当に私をあしらって終わりにするはずです。

「私がそんな事を子供にしたなんて」
「私は生き残っちゃいけなかった」
「死んだ方が良かった」
「死んで当然の人間だ」
と言い、なだめてもなだめても
一時間近く泣き止みませんでした。

泣き止んでもまた泣いて、もう電話を切ると言っては泣き
あなたに会わす顔が無いと言っては泣きました。
受話器を置いて、不自由な身をよじって泣いているようでした。

大変でした…
こんな事になるとは思ってもみませんでした。
こんなに母が傷つくとは。

確かに当時、もう二十年近く前の事ですが
私は大きく傷つき、窮地に陥り
友人や他人の助けを借りて、なんとか道を開きました。
それから数年は両親を
「許すもんか」
と思って暮らしました。
それが私の毎日の源動力にもなりました。

でもそういう考えを持ち続けて生きるのは
とてもしんどくて、苦しくて、幸せではありませんでした。
だから、自分のために両親を許す努力をし
ほとんど許せるようになっていました。
なっていたつもりでした。

でも、こうしてつい口に出てしまったと言う事は
やっぱり100%許していたわけじゃ無かったと言う事でしょう。
自分の心の奥底の黒い部分を覗いてしまいました。

母が元気になり、憎たらしいほどに
性格も元に戻ったので(戻らなくていいのに)
つい以前と同じ様なつもりで、口にしてしまいました。

これじゃ、弱い者いじめです。
元気になったように見えても母は以前のような
私にとっての強者では無いのだな、とつくづく思いました。
今では以前のようであって欲しいと娘は思っているのですが。

ああ…これからどうしよう…
お母たまー!!!


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