お母たまと私 -母と娘の脳卒中リハビリ日記 外伝-
2004年2月に脳卒中(脳出血) で倒れ右片麻痺になった母と私の七ヶ月間にわたる リハビリの記録と、それからの事。
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大江戸捜査網 その3(完結編)
2006年 09月 25日 (月) 00:08 | 編集
弟が病室に入って来た瞬間
ベッドの背を起こして座っていた母は、キョトンとしていました。
でも弟がベッドの足元を回って、母の側にやって来た時には
もう顔がくしゃくしゃでした。

母はほどんど声を出せなかったので
顔だけで泣いていました。
弟も泣いていました。

「ゴメン。本当にゴメン」
弟は何度もこの言葉を口にしました。
何度も何度も。
本当にそれしか言いませんでした。

母はその度に、もっと顔をくしゃくしゃにしました。
そして、動く左手で掴んだ弟の手を、グイグイ引き寄せます。
弟も床にひざまずき、両手で母の左手を取ったまま
ぼろぼろ涙をこぼします。
俯いて、自分の袖で涙を拭くのですが
またすぐに
「ゴメン」
と言って泣きます。
そんな“息子その二”の顔を見て、母もまた泣きます。

母が倒れてから二週間が経っていました。
母と弟は三十分近く泣き止みませんでした。



“弟その一”のお嫁さんが、軟式テニス部のHPの掲示板に書き込むと
次の日に
「“弟その二”さんと、割と頻繁に会っていそうな人を知っているので
 その人に伝えておきます」
と書き込みがあったそうです。
そしてその二日後くらいに、実家に“弟その二”から電話が来たのです。

“弟その二“から電話があった、ちょうどその日。
「今週末までに“弟その二”が見つからなかったら、私が捜索願いを出すからね」
と私は父に宣言していました。
まさか本当に“弟その二”が見つかるとは思いませんでした。
前の年に、母があんなに探したのに。

何ヶ月も後になって、母から『弟その二、手がかり資料』の在りかを聞き出す事ができました。
小学校の卒業文集から年賀状から大学の資料まで
ありとあらゆる書類が、一つの箱に入っていました。
母が“弟その二”のアパートに置いて来たものの
結局読まれること無く、母が自分で回収して来た手紙二通もありました。

その手紙を読んで、物置部屋で私は一人で泣きました。
母親の息子を思う気持ちは、並大抵ではありません。
“母の愛は日本海溝よりも深い”
本当です。


「私も帰るつもりだから、あんたも帰ってきて。
 お父さんが嫌なら、一緒に住まなくてもいいから」

母の病室を出てから、
“弟その二”の涙が乾かぬ内に、と私は捲くし立てたのすが

「お父さんが生きてる限りイヤだ」
「もしお父さんが寝たきりでも、喋れたらイヤだ」
「近くで同じ空気を吸っていると思うだけでイヤだ」

盛大に泣いた“弟その二”ですが
目を真っ赤に腫らしていても、そこだけは譲れないとの事でした。
さすが何年も“音信不通野郎”になっただけの事はあります。
姉の負けでした。

”弟その二゛は軟式ではなく硬式テニス部だったそうです。
書き込んだのは軟式テニス部のHPだったのに
見つかって本当にラッキーでした。
(硬式テニス部はHPがありませんでした)


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大江戸捜査網 その2
2006年 09月 19日 (火) 21:21 | 編集
実家に戻った次の日から
私は“弟そのニ”の捜索を始めました。

<アパートの大家さん>
「去年お母さんにも言ったけど、半年も一年も見かけないからねぇ」

<以前のアパートの大家さんの奥さん>
「“弟その二”さんいなくなっちゃったの?まあ大変。どこに行っちゃったんでしょうね…」
前の大家さんは高齢で、“弟その二”の事を覚えていませんでした。

このお二人は母のアドレス帳にあったので、比較的早い時期に連絡が取れました。
母の手術があったりして、ここまでで母が倒れてから
一週間が経っていました。

ここから先は、電話をかける相手すら見つかりませんでした。
“弟その二”と、私と“弟その一”は年が離れていて
元々連絡を取り合うような仲ではありませんでした。
私にしても“弟その一”にしても、友人一人の名前も知りません。

実家の“弟その二”の部屋を捜索しても
昔の年賀状も、中学高校の生徒名簿も卒業アルバムも見当たりません。
それどころか、数年前まで在籍していた
大学の資料さえ、どこにもありません。
でも、無いはずはないのです。
母が去年、自分で“弟その二”を探したはずなのですから。
『弟その二、手がかり資料』として
母がきっと、どこかにまとめて仕舞っているはずなのです。

でも母は声が出ません。
筆談をしようにも、こちらの言う事が分かっているのかもハッキリしません。

『弟その二、手がかり資料』の捜索を諦めて
私は弟が在籍していた大学に電話をかけました。
以前母から
「“弟その二”は大学のテニス部に入っていて
 大学を辞めてからも、その人達とは交流がある」
と聞いた覚えがありました。

<学生課その一>
「学生さんの情報は、お教えできません」
「退学された方の情報は残っていません」

女の人がテキパキと応対してくれました。
家族だと言っているのに、母が倒れて緊急事態だと言っているのに
相手は全く動じません。
情報を外部に教えられなくても、数年前のテニス部の関係者に事情を話して
私に連絡をくれるようにお願いしても

「そういう事はできないことになっています」

さすがです。
大勢の大事な学生さんを預かる身としては、こうでなくてはいけません。

“やっぱり捜索願いしか無いかも”
“でも父は未だに首を縦に振らない”
“こうなったら、姉として私が警察に行くしかないか”

二三日悶々として
私はもう一度、大学に電話をかけました。
また同じ女の人が出たら速攻電話を切るつもりでした。
そして、すぐに最寄の警察署に駆け込むつもりでした。

<学生課そのニ>
「それは大変だ。でも昔のテニス部の名簿はもうないんですよ…」
「でも現在のテニス部の部長と副部長の携帯の番号なら、教えてあげられますよ」

今度電話に出たのは、年配の男の人で
硬式と軟式テニス部の部長と副部長さん、計四名の携帯番号を教えてくれました。
私は“弟その二”が硬式なのか軟式だったのかさえも知りませんでした。。

「弟さん見つかるといいねえ。お母さんが可哀相だもんねえ」

<現役学生四人>
男女四人の現テニス部の学生さん達に連絡し、事情を話しました。
“OBの方を知らないか”
“OBと交流のある人を知らないか”
“何でもいいので、手掛りがあったら教えて欲しい”

「何か分かったらすぐに連絡します」
「私はOBに知り合いはいないけど、知ってそうな人もいるので聞いてみます」
「ちょっと分かりません」
「部員に聞いてみます」

みんな良い若者でした。
情報は持っていなかったけど、いきなりの見知らぬ女の話を
真剣に聞いてくれました。
アホな姉も兄も父も、“弟その二”が所属していた学部と専攻さえも
正確には知りませんでした。
私には、もう切り札はありませんでした。

「軟式テニス部のHPがあって、そこは現役の学生よりもOBの出没率の方が高いらしいです。
 掲示板に書き込んでみてはどうでしょうか?」

少し経っても、進展は無く
やはり捜索願いかと、変な興奮でドキドキし始めた頃
四人の学生の内の一人の女の子が、電話をくれました。

私はネット環境が無かったので
東京にいる“弟その一”のお嫁さんに速攻で電話をし
HPを探して掲示板に書き込んでくれるように、お願いしました。

それから三日程経った日の夜の九時半。
実家の電話が鳴りました。
「もしもし俺。母さんどうしたの」

***

ごめんなさいー。長いですー。でも次で終わりますー。


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大江戸捜査網 その1
2006年 09月 17日 (日) 13:59 | 編集
私には弟が二人います。
弟その1は、私と同じく関東に住んでいます。お嫁さんと二人の子供と一緒に。
弟その2も、関東に住んでいるのですが
母が倒れた二年前当時、三年くらい行方不明でした。

行方不明と言うのは、ちょっと大げさかも知れませんが
ずっと連絡が取れない状態でした。
学生時代から住んでいたアパートには
大家さんの話では、数ヶ月に一度程度しか帰らず
家賃も時々滞納していたとの事でした。

母は用事で上京する度、弟のアパートに行き
郵便物の整理や、部屋の掃除をしていました。
そして、母から弟へあてての手紙を置いてきていました。
でも半年後に、また母が弟のアパートに行くと
その手紙が母が置いた場所に、そのままあったりしました。

弟はその数年前に、大学を中退していました。
父や母が止めるのも全く聞かずに。
元々弟も私と同じく、父とはずっと反目状態だったので
大学中退以来、全く帰省しなくなりました。
そしてその内に、連絡も取れなくなりました。

母が倒れる前の年の夏。
母は珍しく、私に電話をかけてきました。

「もう何年も、弟その2が行方不明だけど、どうしよう」
(何を今更?)
「お父さんにはずっと、捜索願を出そうと言っているんだけど
 『放っとけ』と言われて出来ないの」
(ならどうして自分でしない?)
「悪い人にダマされて、ヘンな事になっていたらどうしよう」
(そんなバカじゃないでしょう。もしそうなっていても自業自得)
「もう死んでいるかも…」
(アホかっ!!! 泣いても弟その2は見つからん! さっさと捜索願出せ!!!)

結局母は、弟その2の捜索願を出す事はありませんでした。
そして年が明け、二月に母は倒れました。
大捜索が始まりました。


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あなた…
2006年 09月 08日 (金) 01:00 | 編集
二年前、母が倒れてから
母と私のお互いの呼び方が変わりました。

救急病院にいた一ヶ月間は
母はほとんど理解できる言葉はしゃべれなかったので
私の呼び方どころではありませんでしたが
リハビリ病院に転院してから、母は私の事を
「あなた」
と呼ぶようになりました。
とてもお上品です。
私も母にあわせて
「お母たま」
と呼ぶようになりました。
(さすがにちょっと恥ずかしいので「さま」ではなく「たま」で)

これは、母と私が上品だからではなく(残念ながら)
母が私の名前を言えなかったからです。
私の名前を呼びたいけど、呼べない。思い出せない。
苦し紛れの
「あなた」
でした。

「ちょっとあなた、お願い」
「あなたが行って来て」
「あなたのおかげ」

なんだか字面だけ見ると、ムズムズしますね。
後ろにハートマークでも付きそうな感じで。

リハビリ病院も半年が経つ頃になると
私の名前は、なんとか出るようになりました。
でも実は母は以前、私を名前では呼んでいませんでした。
小学生時代から、私には固定のあだ名があり
友人はみんなそのあだ名で私を呼んでいました。
そしていつしか母も。

だから私は、母には二十年来あだ名で呼ばれていたのに
母はその事を覚えていませんでした。
現在もそうです。思い出していません。

母は、日常生活で困るような記憶障害はありません。
でも私の事をなんと呼んでいたかは、きっと思い出せないと思います。
私も母には言わないでしょう。
もう一生、母から以前のように呼ばれる事は無いと思うと
時折私の中身が、チクリチクリと痛みます。

そして今日もアホアホ全開で
「お母たま~あのね~」
とIP電話で長話をする、母と娘です。


***

今日から『外伝&それから』を始めました。
タイトルが全く思いつかなくて
結局、最初に書こうと思った記事から拝借してしまいました。
こんな感じで、まったりとやっていこうと思います。


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