お母たまと私 -母と娘の脳卒中リハビリ日記 外伝-
2004年2月に脳卒中(脳出血) で倒れ右片麻痺になった母と私の七ヶ月間にわたる リハビリの記録と、それからの事。
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老人保健施設 その3
2006年 07月 31日 (月) 21:28 | 編集
八月に入り、父と母と私の三人で老健に出向きました。
母は二回目、私に至っては三回目です。
我ながら、なんてしつこい性格なんでしょう…
最初の一回はお誘いを受けたため、二回目は母に強制されたのですが…

今回初めて施設の責任者の方(40歳くらいの男性)にお会いしました。
その方とPTの方(20代の女性)が、私たち三人を案内してくれ
その後事務所でお話を伺いました。

施設に関して父も私と同じ事を思ったようでした。
「この建物は、今いる所と比べて暗いな」
「だから例えばこの部屋なら、窓際のベッドにしてもらいたい」
「設備が古い」
「職員が少ない」
「年寄りばかりじゃないか」
「ホントにこの人たちは、家に帰れるのか?」

私は後から母にこっそり喋ったり、心で思ったりしただけですが
宇宙人の父は、その場ですぐに口に出してしまいます。
誰がいようと、それを聞いている患者さんが目の前にいようと。
私は父に怒りまくり、母は泣き出すのがこれまでの常でしたが
今回は申し訳無いのですが、父の非礼は放っておきました。
幸い母も泣き出しませんでしたし。

今回初めて、料金の話や具体的な入所後の生活の事を聞きました。
一番大事なリハビリの話も、母と私でしつこい位に質問しました。
一時間もお付き合い下さったでしょうか。
私たちの不安や要望や疑問点に、誠実にお答え頂きました。
良い人達だなと思いました。

リハビリ病棟の母の部屋に戻ってから、父は
「あそこでなんとか自分でやっていくしかない。
 年寄りばかりだが仕方が無い。
 最後は自分でやるしか無いんだ」
クドクドと母に言って聞かせていましたが
私は三回訪問し、気が済むまで質問し、心を決めました。

母をあそこにはやらない。


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老人保健施設 その2
2006年 07月 27日 (木) 13:13 | 編集
私があまり老健の話をしないのを変に思ったのか
母が併設の老健を見に行きたいと言い出しました。

父と母と私の三人で、老健の責任者の方とリハビリ担当者の方に
詳しく話を聞きに行く日取りは、それぞれの予定が合わずまだ決まっていませんでした。
先日の吉岡さん夫妻は、どんな感じかちょっと見せて欲しいと
見学のアポイントを取ってグルっと施設内を回っただけでした。

「見学だけでも予約がいるから、今日はムリだよ」
「ムリかどうか聞いてみて!」
どうしても、今すぐ見たいと言って聞かないので
看護師さんに連絡を取ってもらい、見学出来る事になりました。

母を乗せた車椅子を押して連絡通路を渡り
老健の施設に入って、ナースステーションに声をかけました。
前回一緒に施設を回って、説明をして下さったPTの女性が
私の顔を見て、エッ!?と声を上げました。
私は特に何も言わずに、吉岡さんたちと一緒にいたので
吉岡さん夫妻の娘だと思われていました。
当然です。ゴメンナサイです。
別にダマしたわけじゃ無いのですが、吉岡さんたちが何も言われなかったので…
今回は正しく自己紹介をして、見学となりました。

母は、前回の私とは全く違う所を見ていました。
・部屋から杖で廊下に簡単に出られるか。障害物は無いか。
・廊下の手すりは母にも持ちやすいか。
・手すりはずーっと続いているか。途中で切れていないか。
・床は歩きやすいか。材質はリハビリ病棟と同じか。
・廊下で歩くリハビリをしている人はいるか。
・トイレはどの部屋からも近いか。
・トイレは車椅子で使い易いか。

老健に入った途端に、雰囲気の違いにしょげてしまうかと心配していたのですが
全くそんな事はありませんでした。
この老健入所後も、今とあまり変わらない量のリハビリができるかどうか。
自分でやれるかどうか、冷静に見極めようとしていました。
雰囲気にしょげてしまったのは、入所しない私の方でした。

リハビリ病棟の自分の病室に帰って、母に聞いてみると
「暗いとかお年寄りが多いとかは別にいいの」
「病院だから仕方ないの」
「でもあそこの廊下で、私一人で歩く練習はちょっとむつかしいかも」

”母は本当に、まだまだリハビリを続けたいのだな”
そしてそれを叶えてあげたい、と強く思いました。


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老人保健施設 その1
2006年 07月 26日 (水) 00:51 | 編集
ある平日の午後。
母の病室を出たところで、吉岡さんの奥さんと
珍しく車椅子に乗った吉岡さんに会いました。
「今から隣の老人保険施設を見に行くの、一緒に行かない?」

七月のカンファレンスで、うちの母も吉岡さんも
九月初旬の退院後は、併設の老人保険施設をすすめられていました。

母の場合は
・絶対に帰れないことも無いけれど、もう少しリハビリを続けた方が
 帰ってから楽だと思う。
・老人保険施設は沢山あるけれど、うちの併設の施設だとリハビリのやり方を
 直接引き継げるので、その点で安心してもらえると思う。
・どこの老人保険施設も、入居待ちの方が沢山いるので
 申し込みだけでもしておいてはどうか。
・もしも退院後すぐに空きがなければ、リハビリ病棟の入院期間を
 少し伸ばして待機して頂けます。

という事で、父と母と私は一度見学に行こうと思っていた所でした。
予約がしてないと見学は出来ないのですが
私だけでも一緒に行こうと言われ、吉岡さん夫妻について行きました。

その時の印象は
・リハビリ病棟と棟続きとはいえ、全く雰囲気が違って暗い。
・年齢層が高い。ほとんどが80代以上ではないかと思われるほど。
・個室が無い。
・寝たきりの患者が多い。
・活気が無い。
・スタッフの数が少なく、看護師はほとんど見かけない。
・設備が古い。
でした。

吉岡さん夫妻がアレコレ質問をし、老健のスタッフが答えるのをうっすらと聞きながら
私はすっかり気分が落ち込んでしまいました。

”老健は家に帰る準備をするための場所なので入院期間は三ヶ月単位である”
”そのため、近い内に家に帰れる見込みのある比較的状態の良い患者が入る所”
”特養や老人病院とは違い、基本的に医療が必要の無い患者しか入れない”

という予備知識で行ったのですが、全て覆されたような印象でした。
とにかく暗くて活気がありませんでした。
リハビリを続けてやってもらうために、入所するつもりなのに
リハビリが出来そうな患者さんは、あまり見当たりませんでした。
それに、三ヶ月後に家に帰れそうな患者さんも。

吉岡さんの奥さんも次の日には
「行くの辞めた。他を探すか、無かったら家に帰るよ」
と私に言われました。吉岡さんが嫌がったそうでした。
吉岡さんは母よりも二つ若い58歳です。

私も母があそこに行かなければならないのかと思うと
母の顔を見るのが辛くなりました。
「ココとは感じが違うよ。まあお年寄りが多いかな」
としか母には言えませんでした。


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デビュー
2006年 07月 17日 (月) 10:29 | 編集
母はずっと、ピンク色の足首を固定する装具を右足に着けて
リハビリを行ってきました。
毎回リハビリの最初に、PTやOTの先生が装着してくれるのですが
「ちょっとコレ無しで歩いてみましょうか」
ある日リハビリ責任者のOTの先生が言われました。

リハビリシューズのみで病室を歩いて、廊下に出てみました。
時々右足の先が床に引っ掛かって、歩みが止まります。
ハタから見ていると、そのまま転ぶんじゃないかと、ちょっと危なっかしい感じです。
OTの先生は、後ろから母の腰を圧迫しながら支えて
少しの間、母を歩かせながらじっと母の足元を見ていました。

「つま先が上がっていて、足の甲と足首で調節できるタイプのサンダルを買って来て下さい。
 できるだけ軽いのがいいです」
病室に戻ってから、OTの先生が私に向かって言いました。
それならなんとか装具無しで歩けそうだと言うのです。
私は母が装具を外せる日が来るなんて思ってもみなかったので、心底驚きました。
そんな立派な歩き具合だとは思えなかったからです。
大体、長い距離は歩けません。
それも杖で、まるでペンギンのようにチマチマと進むだけです。
先生は、装具はそれ自体の重さもあるし
つま先がちょっと上がってるだけで、かなり歩き易くなると言われました。

私が探して来たサンダルは、赤と黒のツートンでした。
女性モノで、先が上がっていて二ヶ所調節可能のタイプは
それ一足しかありませんでした。残っていてラッキーでした。
男性モノは沢山あったのですが
七月も後半に入って、もう夏物は残り少なかったのです。

「コレコレ。こういうタイプがいいんですよ」
OTの先生が、サンダルの甲と足首のベルトをきつめに調節して
サンダルで母を歩かせてくれました。
リハビリシューズの時よりは、断然つま先の引っ掛かりは少なくなりました。
「軽くて、足にピッタリくっついていいよ」
母も、そう言ってくれました。
「このまま、このサンダルで練習して行けば
 つま先の引っ掛かりも無くなると思いますよ。
 それにこれなら、○○さんが自分で履けます」
OTの先生はそう言って
母に左手だけで、右足にサンダルを履かせる方法を教えてくれました。

その日から母は、OTリハビリの最初に
自分でサンダルを履く練習をするようになりました。

装具が外れたからと言って、歩き方が良くなったわけでも
長く歩けるようになったわけでもありませんでしたが
こうして少しずつでも
“~が無いと歩けない”
“ご飯を食べる時は、コレが無いとダメ”
などの、特別なモノが必要無くなっていけば
それだけでも、充分嬉しい事だなーと思いました。

「○○さん。ナイキじゃないですか!僕とお揃いですね」
PTの時間が来て
25歳の先生は、母のサンダルのベルトを調節してくれながら言いました。
ビックリして私もしゃがんでみると
確かにちっちゃいナイキのマークが、ベルト部分にありました。
私とした事が全く気が付きませんでした。
母のナイキデビューでした。


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母の怒り
2006年 07月 11日 (火) 10:54 | 編集
「個室に移りましょう」
杖でPTリハビリを始めて少し経った頃、OTの先生が言われました。
「ちょうど個室が空きましたし、トイレが付いているので
 これから杖でトイレに行く練習をして頂くのにも都合がいいです」
PTリハビリはリハビリルームから病室前の廊下に移っていました。
退院まで二ヶ月をきって
本格的に、帰宅後を見据えたリハビリが始まるのだと思いました。
母も“状態の良い人が入る個室”をすすめられて嬉しそうでした。

個室に移った日の午後
OTの時間に早速母は、先生と一緒にベッドから部屋のトイレまで杖で行きました。
PTリハビリで廊下を毎日歩いているので、特に問題無くトイレまで行けました。
そこから用を足す動作も。
「これからはOTの時間に毎日、私と杖で部屋のトイレに行く練習をしましょう」
OTの先生からも合格点を貰いました。

次の日の朝、私が病室に行くと、母は不機嫌でした。
昨夜、部屋にトイレが付いているにもかかわらず
これまでと同じように、ポータブルトイレで用を足すように看護師さんに言われ
部屋のトイレに行かせてもらえなかったそうでした。
「歩いて行きたいと言った訳じゃない。
 車椅子で部屋のトイレに行くから付いていてくれと言ったのに
 ダメだと言われた」
との事でした。
私と一緒の時に、車椅子で部屋のトイレに行くのは、もちろん許可されています。
これまでも何ヶ月間も、私が一人で病室から少し離れた場所にある
トイレに連れて行っていたのですから、当然です。
OTの先生が来られたら聞いてみようと言う事で、私はその場を収めました。
ところが、母はOTの時間まで待てませんでした。

「おかしいっ!どうして部屋にトイレが付いているのに、行っちゃいけないの。
 トイレ付きの部屋に移った意味が無いっ!
 どうしてトイレがあるのに、ポータブルでしなきゃいけないの!
 行っちゃいけないなら、なんで個室に移したの!」
PTの先生にぶちまけてしまいました。
私も初めて見る母の姿でした。まるで発作のように怒りまくっていました。

これまで母は、不機嫌や怒りといった感情が無いかのごとく
大人しく静かで、一切病院のスタッフに文句を言った事はありませんでした。
私にさえ病院側の不満を言った事は、ほとんどありませんでした。
若いPTの先生はビックリして、しどろもどろでした。
「○○さんのお気持ちはよく分かりました。
 そうですね。トイレが付いている意味が無いですね。
 OTに確認してみます」

結果的には母の要望通り、夜もスタッフ見守りの上で
車椅子で部屋のトイレに行って良い、という事になりました。
OTの先生が、夜のトイレについての指示を変更していなかったため
スタッフがポータブル使用を固持したようでした。

母がこんなにも、ポータブルトイレを嫌がっているという事を
この日まで私は全く知りませんでした。
“こんなにも、普通のトイレに行く事にこだわっているなんて”
“ポータブルは夜だけだったのに”
“それでも嫌だったんだ”
“だからあんなに、個室に移るのを喜んだんだ”

「昨日は私どうかしてたの。ゴメンネ」
次の日、母はPTの先生に謝りました。
「昨日はビックリしました。でもこれからも嫌なことがあったら何でも言って下さい」
無事仲直りができました。


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七夕
2006年 07月 08日 (土) 23:53 | 編集
回復期リハビリ病棟の食堂に、大きな笹がやって来ました。
毎年患者や職員が、短冊を書いて飾り付けるという事でした。
母も願い事を書くように言われ、大きめの色紙を渡されました。

とはいっても母には失語症があります。
何と書いていいか、願いと言われても思いつかないし
言葉も中々思い出せませんでした。
職員の人達の分は、もうほどんど飾ってあるというので
参考にするために、車椅子で短冊を見に行きました。

「息子が大学に受かりますように」
「旦那の血糖値が下がりますように」
いつもは母と自分の事だけでいっぱいで
看護師さんや介護師さんリハビリの先生たちの事まで考えが及びませんでしたが
家族に病人がいようといまいと、皆それぞれ真剣な悩みや願いがあるのだなと
当たり前の事を、シミジミ思いました。

母の三人の子供達は、皆とっくに大学を卒業しているし
今のところ家族には母の他に病人はいません。
人の書いた短冊は、あまり母の参考にはなりませんでした。
母の願いは、やはり
「手と足と口が元に戻りますように」
なのですが、それではなんだか生々し過ぎるし
母が毎日、朝から晩まで願いつづけている事を
短冊にまで書かせたくありませんでした。

母は毎年のように、習い事その2で一緒のOさんと
奈良に旅行に行っていました。
『Oさんと奈良に行きます』
母の短冊はこれに決まりました。
字も左手でゆっくり大きく、ちゃんと漢字で書きました。
皆にも、綺麗に書けたねと言われて、母も嬉しそうでした。

「ステキな女性と出会いたい」
背の高い男の看護師さんに、母の短冊を飾ってもらっている時に
母のPTの先生が、こんな可愛い事を書いているのを見つけました。
夕方のPTの時間に、母が先生をからかう事が決定しました。



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やっと
2006年 07月 03日 (月) 23:20 | 編集
リハビリ病棟のある地元の病院に転院して、丸四ヶ月。
七月に入って、ようやく杖でのPTリハビリが再開されました。
リハビリ中に転びかけてから、一ヶ月間封印していたMY杖の出番です。

「吉岡さんみたいに、杖で歩きたいな~」
「でも怖くてたまらないの」
この一ヶ月間、母は病室に置いてあるMY杖を度々眺め
時には左手で触ったりしていました。
リハビリ責任者のOTの先生が、杖歩行を再開する三日程前から
OTリハビリの時間に少しだけ、病室内を杖で歩かせてくれました。
もちろん後ろからガッチリと母を支えてくれました。

やり方はPTの先生と同じなのですが
そこはベテランです。
安定感が全く違ったそうです。
おかげで母は、杖を再開する勇気がわいたようでした。

最初は、本当に恐々と歩いていましたが
少し慣れて来ると、母も一ヶ月のブランクが惜しいらしく
リハビリの時間以外も、病室を杖で歩きたがりました。
もちろんバリバリ禁止されています。
やっと母も、吉岡さんのように
『やらずにはいられない』
気持ちになったんだなと思いました。

吉岡さんからは、この時点で三ヶ月もの遅れをとっています。
今思うと麻痺の程度もですが、意識レベルも
吉岡さんよりもずっと悪かったのでしょう。
この頃からリハビリの無い土日にも
隠れて杖で歩く練習をしたいと言い出しました。

やっとです。本当にやっと。
母の気持ちが私の気持ちに追いつきました。
やっと母も『与えられる量では足りない』と思うようになったのだと思いました。

”どうして死にもの狂いにならないの”
”時間が無いのが分からないの”
”こんなにしているのに、なぜ良くならないの”
私の人生で最悪の精神状態だった三ヶ月間が終わりました。


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