お母たまと私 -母と娘の脳卒中リハビリ日記 外伝-
2004年2月に脳卒中(脳出血) で倒れ右片麻痺になった母と私の七ヶ月間にわたる リハビリの記録と、それからの事。
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今回の帰省にて
2006年 06月 29日 (木) 21:48 | 編集
今回、五ヶ月ぶりに母に会って色々感じました。

・身体はともかく中身の方は、ほぼ元に戻っている。
・但し、細かいことで忘れている事、思い出せない事はある。
 (その殆どは、こちらが言えば思い出せる)
・性格も元に戻っている。
 (だから言い訳や、口ごたえもするようになった)
・私にあたることが何度かあった。
・何故か今回は、お正月よりも構音障害がひどいような気がした。
・体力がついてきた。(外出してもヘタレない程度に)

構音障害については、何故だか分からないのですが
良く無かったです。
一週間私と喋っていれば、良くなるかとも思ったのですが
あまり変化はありませんでした。
母が自分で慣れてきて、ゆっくり喋らなくなったからかも知れません。

何と言っても、一番変化を感じたのは
母が私にあたったり、意義を唱えたりするようになった事です。
とにかく扱いにくくなりました。
家事や色んな事が私の勝手にはできなくなりました。
父と母の家なのですから、当然と言えば当然なのですが
これまでは二年以上、誰に何を言われることもなくやってきたので
私としては、とてもやりにくかったです。

とうとう母も”病人”を脱したと言う事でしょうか?
それならそれで、嬉しい事なのですが
近い将来、母の側で暮らすことを考えている私にとっては
ハードだけでなく、ソフト面でも
まだまだ超えなくてはいけない山があるな、と感じました。
近くにいる事によって、お互いがストレスになるようでは
意味がないと思うからです。

えーと、今回の帰省で一番しんどかったことは
毎日の食事作りもそうですが、実は障子張りでした。
生まれて初めてやったので、勝手も分からず苦労しました。

そして母よ。
大小六枚の障子がほぼ張り終わった頃にノコノコやってきて
「あら、障子は下から張るのよ。埃がつかないように。知らなかったの?」
と涼しい顔で言うのはやめて下さい。
キレそうになりましたよ!!


次回から、2004年のリハビリ日記に戻ります。

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2006年6月現在の母 その7
2006年 06月 24日 (土) 01:39 | 編集
こんなにもこんなにも、母を愛しく思っている私ですが
一週間も一緒にいると何度かキレかかります。
(自分でも自分の落差に愕然…)
母の元々の性格が、どんどん表れ始めたというのもあります。
これまではやはり、少なからずボンヤリしていましたし。
母を『何故嫌いだったのか』をヒシヒシと思い出したりしました。

「お食事は旦那様が作ってらっしゃるの?
 よくやっておられるわね~。○○子さん良かったわね~」
二人で親戚の家に行った時、その家の奥さんがそう言ってくれました。
もちろん母の事を思って言って下さったのです。
”これまで縦の物を横にもしなかった人が、今では食事まで作ってくれる”
”大事にされているのね。愛されているのね”
”羨ましいわ”
という意味なのです。
まあもちろん、それ以外に現在の母には『良かったわね』と
言ってもらえる要素は無いから仕方がないのですが…

でもその言葉は母には禁句なのです。

その日の夜、私が台所でうんしょうんしょと
レシピノート片手に夕飯の支度をしていると、母がやってきました。
「お父さんの明日のお弁当のオカズがないわ」

父は日中、趣味のことをやりに田舎へ行きます。
そのお弁当は父が自分で作ります。
私のスケジュールには、父のお弁当作りは入っていません。
そんな事はこれまでもずーっとそうでしたし、昨日も一昨日もそうでした。
「お父さんの世話はしなくていい」と母ははっきりと言いましたし
しろと言われても、この世で母以外に父の世話も食事の用意も出来ないのは
母が一番良く分かっています。
父は私の作ったものもまず食べられないので
自分の分は自分で用意をするのです。

「お弁当のオカズが無いのは昨日までも同じでしょ。何言ってるの」
「濃い味のオカズが無いわ。これの味付けを変えて」
私が作り終えたオカズを、お弁当用に作り変えろと言うのです。
「イヤだ。お父さんの口に合うようには作れないし、作るつもりも無い」
「私がいうように作りなおして!」

昼間、親戚の奥さんに言われた言葉が
”お父さん。申し訳ありません”という気持ちに火をつけてしまったのです。

完璧に夕食の支度をしてからでも、夜に家を空けるのは
「お父さんの食事のお世話が出来ないのは、申し訳無い」
と言って、毎週小さくなってお稽古に出かけていた母。
年に一回しか帰省しない娘と出掛けることがあっても
夕方五時には帰ってくる(仕事ではなく遊び)父を迎えるために
三時半にはそわそわし始め、四時には娘を振りきって一人で帰ってしまった母。
問題や心配事ができても、父にダメだと言われるとそれ以上何も出来ず
どうしようも無くなってから娘に泣きつき、娘をも不安に陥れた母。
自分では何も解決しようとせず
「私にはできない」
「お父さんがダメだと言ったから」
「どしようもないの」
が口癖だった母。

人の性格や生活習慣は、生死をさまよい、大病から復活しても
簡単には変わらないのだなと思いました。
今回の事があるまでは、少しは母も変わったのかなと思う事もあったのですが
そうでもなかったようです。
結局母は、私にオカズを作り直させました。
一日や二日、お弁当のオカズを私が作ったとしてもどうしようも無いのに。
母が自分で父の世話ができないのなら
それはスッパリと諦めなくてはいけない事なのに。

母がそのうち、一人で台所に立つ練習でも始めるのではないかと、不安です。
こればかりは、父が禁止していてもやってしまいそうな勢いです。
そんな事をして骨折でもしたら、絶交です!!!


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2006年6月現在の母 その6
2006年 06月 19日 (月) 23:55 | 編集
退院後三度目の外出で、母は初めてショッピングセンターに行きました。
事前に電話をし、車椅子を予約してから出かけました。

母の夏服でも買おうと思っていたのですが
最初に入った書店で、一時間も過ごしてしまいました。
母はとても本好きです。
きゃあきゃあ言いながら、本を選んでいました。
「ついていなくていいから、好きなところに行きなさい」
途中からそんな事を言い出し、追い払われてしまいました。
きっと私の解説がうるさかったのでしょう。
私も母に負けず劣らず本好きなので、語ってしまうのです。
結局、漢字ドリルや俳句の本など三冊の本を、母は選びました。

それから二階のレストラン街に行き
麺類や丼物が食べられる、お食事処に入りました。
「倒れる一ヶ月前のお正月に、ここに二人で来たのを覚えてる?」
私は言いました。
「あなたは自分の”かたヤキソバ”を食べた上に
 私の残したカツ丼まで平らげたんだよ」
「……おぼえてるよ。ホントにあのお正月は、私へんだったの」

母が倒れる一ヶ月前のお正月。
私が帰省していた二週間の間、母はほとんど毎日
”どっか行こう!!!”と私を街に連れ出しました。
田舎のため、そんなに毎日行く所は無いので、同じデパートに何回も行きました。
普段は行かないホームセンターにも行きました。運動と称して徒歩で。
初詣にも三回行きました。そのうち二回は同じ神社へ。
毎日二人で出掛け、ご飯を食べ、テレビで見たケーキ屋さんに寄って帰りました。
そんな世間並みな母娘の行事は、今まで一度も無かった事でした。
私と母は決して仲の良い母娘ではなく、雑談さえした事が無いような
どちらかと言うとクールな関係でした。
「ねぇねぇお母さんー」と言った会話は、一度もした事が無かったのです。

「すべてをやり尽くそうとしていたみたいだったの。今思うと」
母はボソリと言いました。
「だからホントはあの時、死んでるはずだったと思うの」

私もそう思いました。
私も変だったからです。
そのお正月の前の数ヶ月間、何か美味しいものを食べると
”食べさせてあげたいな”
ステキなバッグを見ると
”プレゼントしようかしら”
ふと母の事を思い出しては
”元気なのかしら。本当は淋しいんじゃないかしら”
などと感じていたのです。自分でも不思議でした。

そのお正月、田舎からこちらに戻って来た時
”なんだか淋しい”と思いました。
親元を離れて何十年にもなりますが、初めての事でした。
父の事はハッキリと”嫌い”でしたが、母の事も
”どちらかと言うと嫌い”でしたから。
いい年をした大人が、恥ずかしいのですが。

母がなんとなく、自分の異変を感じていたように
私も虫の知らせを受けていたのだと思います。

母が倒れてから、私は何千回も後悔しました。
思ったことを、たった一つでも実行していれば。
たった一言
「淋しくない?」
と聞いてあげていれば、こんな事にはならなかったかも知れない。
もしも同じように倒れていたとしても
今よりは後悔は少なかったかも知れない、と思いました。
今でもそう思っています。


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2006年6月現在の母 その5
2006年 06月 17日 (土) 01:03 | 編集
この度の帰省中、二度母と外出しました。
母が、リハビリと病院への定期検診以外で外出したのは
退院してからは三度だけです。
今年のお正月に私と一度。そして今回の二度です。

友人には
「お父さんはお母さんをどこにも連れて行ってくれないの?」
「家に閉じ込めているの?」
などと聞かれます。
そういうわけではないのですが
父は基本的に、人の気持ちや体調や都合というものの”存在”が
理解できないタイプの人間なのです。
私や母とは“話の通じない”人間なのです。
私はずーっと”宇宙人”なんだから仕方が無いと思ってきました。
思えば同居の祖母(父の母)もそうでした。遺伝なんだと思います。

ですから母が
”こうして”欲しいと言っても
父は勝手に脳内で変換して
”ああして”しまうのです。

これまではそれでも済んでいました。
父に何もやらせなければいいのです。
ありとあらゆる全ての事を、母は自分でやっていれば良かったのです。
そして黙って父の尻拭いをしていれば、取り敢えずは済んでいたのです。
そんな宇宙人な父に頼まなければ、外出どころか入浴もままならなくなった母は悲惨です。

父と二人で定期的に病院に診察に行かなければならないのが
一番イヤだと言います。
二人きりで車に乗って行くのです。
それだけは避けようがありません。
父には母が車に乗りやすいように手を貸す事もできないし
母ができるだけ歩かなくてもいいように、入り口の側に車をつけよう
という考えも働かないのです。
母の身体の負担の事や、トイレの心配などできるはずがありません。
(補足しておきますと、父は自分では立派にやっているつもりなのです。
 自分では、母の事を考えて行動しているつもりなのです。
 これは年齢とは関係ありません。
 私が物心ついた頃から、父はそういう人でした)



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2006年6月現在の母 その4
2006年 06月 12日 (月) 02:13 | 編集
「だんだん怖くなってきたの」
日曜日。二人で近所を歩いてリハビリしている時、母は言いました。
「まえは、何もかんがえないで歩いていたのよ」
頭がクリアになるに連れて、母は怖い事が増えたそうです。
ちょっと斜めになっている所を歩くのも、とても怖いそうです。
必ず麻痺している右側についていて欲しい、と言いました。

今回私が帰省する時、飛行機が無事に着くかしらと
心配で仕方が無かったそうです。
そう言えば、お正月に私と弟その2が帰った時
そんな事は何も言いませんでした。

昨年の今頃も、私は帰省したのですが
その時母の左手の甲に、痣と血豆のようなモノを見つけました。
私はビックリして、どうしたのか聞くと
「ころんだの……」
見つかっちゃった、というような顔で母は言いました。

リハビリが休みの日の昼間、父は二階にいて母も二階へ行きたくなったそうです。
父と一緒に階段を上ったことはあるのですが
一人ではやっていませんし、もちろん禁止されています。
「できるような気がしたの」
「魔が差したの」
一人で二段くらい上がったとき、バランスを崩して
左側にある手すりの、向こう側の廊下に
走り高飛びの”ベリーロール”をして落ちたそうです。
骨折しなくて幸いでしたが、身体のあちこちを打ち
二ヶ月くらいはまともにリハビリが出来なかったそうです。

今の母ならそんな事は絶対しませんが
まだその頃は、頭に霞がかかった状態だったのだと思います。
「ぜんぜん怖くなかったの」
父に散々叱られ、禁止事項を細々と決められ
そっちの方が怖かったと言っていました。
私にも怒られると思って言わなかったそうです。
そら怒りますがな、母よ。

その話を聞いた一年前、私も怒りたかったのですが
母の華麗な”ベリーロール”を想像すると
笑ってしまって怒れませんでした。


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2006年6月現在の母 その3
2006年 06月 08日 (木) 19:38 | 編集
帰りは四時頃に通所リハビリセンターを出ます。
たいてい母が最後か、最初から母が一人だけの事が多いみたいです。
母が一人の時や最後に残る時には、助手席に乗ります。
三十分ほどで家に着きます。
父が家にいない日は、ケアワーカーさんと一緒に家の中に入ります。
ちゃんと部屋まで連れて行ってくれて、窓なんかも開けてくれて
時々郵便物も開封してくれるそうです。
母はその日の朝のお迎えの人の名前から、お昼ご飯のメニュー
帰りの車のワーカーさんの名前などを思い出して、日記を書きます。

一人であれやこれやをしていると父が帰って来ます。
家でも一人の時に車椅子から離れるのは、父から厳しく止められているため
父が帰って来るのを待って洗濯を始めます。
洗濯物をトートバッグに入れて左の肩に掛け、杖で洗面所に行きます。
母が倒れてから全自動洗濯機に変えたので、スイッチを一回押すだけです。
洗濯が終わったら脱衣カゴに入れて、カゴを押して廊下にある物干し場に行きます。
脱衣カゴにはコロが付いているので、楽に押せます。
タコ足の洗濯干しに洗濯物を干します。
これなら左手片手でも干せるそうです。
タコ足の真下に頑丈な椅子を置いておいて、それに寄りかかって干します。
終わるとちょうどいい感じで夕飯が出来ています。

実家は居間が畳敷きの茶の間なので、なんとか座椅子に座ります。
父と二人でテレビを見ながら夕食を食べます。
畳に座れるようになったのは、このお正月からです。
(退院して一年以上経ってからです)
それまでは父は茶の間で母は自分の部屋で、別々に食事をしていました。
食事が終わると二人で洗面所に行き歯磨きです。
夜は部分入れ歯を、父が歯ブラシで洗います。
終わると母は一人で洗面台に熱いお湯を溜め、右手をその中に浸けます。
これは家に戻ってから毎日やっている事で、まったく動かない右手を
なんとか柔らかく保とうと、している事です。
効果があるのかどうかは、私にはよく分かりません。
十分くらいやっているのですが、その間母は
「せーんろはつづく~よ~どーこまーでぇーもぉ~♪」
と大声で歌います。
築三十年の小さな家ですが、一軒家で良かったと思います。
構音障害の改善のため、父に゛ヤレ゛と言われて始めた事だそうです。

部屋に戻ると、あとは寝るまでの自由時間です。
明日はリハビリに行かなくてもいいと思うと、なんだかもったいなくて
つい夜更かししてしまうそうです。(子供?)
テレビを見たり、PCでメールを見たり(PCもこのお正月に始めました)
好きなことをして過ごします。
゛オーラの泉゛とか観てました。
そして夜中の一時頃に就寝です。

母、お疲れ様でしたー。


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2006年6月現在の母 その2
2006年 06月 08日 (木) 01:09 | 編集
リハビリに行く日の母は大忙しです。

目覚ましで起きて寝巻きから着替えます。
当日持っていくモノのチェックをします。
父が用意したトーストとヨーグルトとチーズの朝食を食べます。
杖で洗面所に行って顔を洗い、部分入れ歯を洗い、自分の歯を電動ハブラシで磨きます。
九時にお迎えの車が来る前に、トイレで“うんちょす”さんを出しておきます。
血圧の薬(最近血圧が下がり過ぎて具合が悪くなったので減らしました)と
胃薬とお通じの薬を飲んでいるのですが、晩御飯に野菜を沢山食べた日は
「だいじょぶ」
とお通じの薬をサボるので、時々出てくれないようです。
車椅子に乗っていないと自分で靴をはいたり脱いだりが出来ないので
玄関まで車椅子で行き、靴をはいてお迎えを待ちます。
お迎えが来ると、ケアワーカーさんと一緒に家の前に止めたマイクロバスまで
杖でえっちらおっちら歩きます。
速度は国会の牛歩並みです。
お先に乗っていらっしゃる皆さんに、ご挨拶をします。
マイクロバスの入り口の段差もなんとかクリアして、やっと出発です。

通所リハビリセンターに着くと、毎日必ず熱と血圧と脈拍を測ります。
母は私と同じで少々脈が多いタイプなので、時々
「脈が少なくなるまでお風呂は待ってね」と看護師さんに言われるそうです。
なんとか午前中にお風呂を済ませると、すぐお昼ご飯です。
回復期リハビリ病棟時代にいっしょだった70代のTさんが
いつも隣に母の席を取っていてくれるので、そこで皆でお食事です。
四月から食事代を払わなければいけなくなったのに、ご飯は不味くなったそうです。
ケアワーカーさんが食器を下げてくれる時
わかるように言おうとすると時間がかかって、行ってしまうので
「ごち&×○%゛!@たっ!!!」
ものすごく早口で「ごちそうさまでした」と言うそうです。
そしていつも笑われるそうです。

午後からはリハビリです。
月曜日はPTで金曜日はOTのようです。
どちらの先生も、動かない右側の肩や腰が痛いと言うと、マッサージしてくれるそうです。
リハビリの方法は病棟時代とあまり変わりは無いそうです。
金曜日のOTの先生が上手だと言っていました。
まだ右手右腕はピクリともしませんが、肩の力を抜いて肘やその先に
意識を集中させる方法を教えてもらっているそうです。
そのうち、母と右手で握手ができればいいなと思います。
PTでは階段を上がったり下りたりもします。
気合を入れないと足が上がらないので
「いきますっ!」と毎回最初に自分で声をかけるそうです。
それがおかしいと笑われるそうです。
(母笑われまくり)

三時前にオヤツの時間があるのですが
いつも車椅子の肘掛に左手で頬づえをついて眠ってしまっているそうです。
お風呂+リハビリで疲れるらしいです。
みんな次々と覗き込むだけで、起こしてくれないそうなので
目が覚めてから、一人だけオヤツをもらいに行くそうです。
(母よだれ垂らしまくり。きっと)

長くなりそうなのでちょっと切ります。


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2006年6月現在の母 その1
2006年 06月 04日 (日) 23:11 | 編集
一週間田舎に帰って来ました。
その間ほとんどインターネットに触れなかったので、更新しませんでした。
のぞいて下さった方、ごめんなさい。

母に会うのはお正月以来でした。
前日は、仕事場でもついニヤニヤしてしまうほど楽しみでした。
母に渡すお土産も全部買えたし、むこうのお天気は良さそうだし
『えへへへ…』
ってな感じでした。
なので母の部屋に入った時、私はハイテンションだったのに
「タ・ダ・イ・マーッ!!!」
「………おか…えり…」
母は寝てやがりました…
片思いって辛いですね。

髪の毛が伸びていて、以前の母とダブって見えて、今回はちょっぴり切なかったです。
それにお正月はなんだか太って顔がパンパンだったのですが
3kgほど痩せたらしく、目が落ち窪んで老けて見えました。
「痩せなさい」
「足が悪いのに太ってどうする」
「もうご飯は食べちゃだめ」
とお正月には言っていたのに、今回はバシバシ食べさせました。
“世界で一番料理が嫌い”な私ですが、頑張って毎日作りました。
外食とお惣菜で生きてきた私でしたが、母が倒れてから
“母に食べさせる”という目的のためだけに、時々自宅で料理をするようになりました。
才能が無いのと、経験浅くカンが働かないため
未だに肉じゃが一つレシピが無いと作れないのですが…

母は月水金と、週に3回“通所リハビリテーション”という名目で
入院していた病院と同じ敷地にあるデイケア施設に通っています。
朝9時にむかえが来て、帰りは5時になります。
月曜日と金曜日はお風呂に入れてもらいます。
最近やっと一人風呂では無く、広いお風呂に入れるようになったそうです。
もちろんマンツーマンでケアワーカーさんについていてもらうそうです。
この四月から介護保険などが変わり、水曜日はリハビリが無くなったそうです。
その変わりに、一人一人に細かいリハビリメニューが作られて
リハビリの無い水曜日は、看護婦さんが建物のあちこちを
母について歩いてくれるようになったそうです。
(母は一人で車椅子から離れるのは禁止されています)
減ったリハビリ分を少しでも補おうと、施設側も色々と努力をしてくれているらしいです。
母は水曜日は行くのを辞めて、整形外科などでリハビリを受けようかと
考えていたそうなのですが
取りあえず当分は、今の施設にこのまま通う事にしたそうです。

お風呂がある月金は、同時にリハビリもある日なので忙しく
あまり他の事は出来ないらしいのですが、水曜日にはスケッチをしたりするそうです。
施設に色鉛筆と水彩絵の具が置いてあり、花などを描くそうです。
母は絵を描くのが好きらしく、私にスケッチブックと24色鉛筆を所望しました。
月に二回、俳句のお稽古があるそうで
「難しくてなかなかできないの」
「一番頭が疲れるのよ」
「いい言葉が浮かばないの」
ちょっとしょんぼりしていました。
“沢山の言葉を忘れてしまった”
“思い出せない”
と実感するのでしょう。

母は多趣味な人でした。
三つも習い事をしていました。一つは二十年続けていて師範級でした。
その全てが出来なくなりました。
家に帰って一年半。
家でも左手で庭の花をスケッチをしたり、辞書片手に俳句をひねったりしています。
読書も大好きだったのに、今では一冊本を読むのにとても時間がかかります。
俳句の言葉が浮かばなくて、しょんぼりしている母を見ていて
人が人にしてあげられる事の少なさに、私は”プチ絶望”しました。
生き甲斐を与えてあげる事は誰にも出来ないなと。
でもウルトラ飽きっぽい私は、コンマ何秒かで無事立ち直りました。

帰省日記はもうちょっと続きます。

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