お母たまと私 -母と娘の脳卒中リハビリ日記 外伝-
2004年2月に脳卒中(脳出血) で倒れ右片麻痺になった母と私の七ヶ月間にわたる リハビリの記録と、それからの事。
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あると思えば(その2)
2006年 05月 26日 (金) 23:09 | 編集
拾った白い自転車は、マウンテンバイク風味の割と上等そうな自転車でした。
手入れもされずに放置され、古びてはいましたが
元々の値段は、私が新品で買った安物自転車の何倍もするだろうと思われました。

タイヤに空気は入りましたが、すぐにへなちょこになっては困るので
2、3日は実家~実家の最寄駅で乗ってみました。
大丈夫そうでした。
そうとなれば、後はどうやって病院の最寄駅まで運ぶかです。
友人に車で運んでもらう事も考えました。車で20分の距離です。
しかし、変なところでチャレンジャーな私は思ってしまいました。
“この白い自転車で実家から病院まで走ったらどんな感じだろう”
どんな感じもこんな感じもありません。
25分歩くのがイヤだから自転車を拾ったくせに。
足の裏が痛いくせに。心肺機能は50代のくせに。
車で20分の距離を、ノンストップ通勤快速列車で15分+αの距離を
運動していない歴20年近い30代半ばの女が、自転車で走るなんて。

車で行く場合の経路は近道なのですが、山越えになるのであきらめました。
遠回りになるけれど、ほぼ平坦な国道をずーっと行く経路を選びました。
どれくらい時間がかかるか見当もつかなかったので
決行はリハビリの無い日曜日にしました。
「もしも10時になっても私が到着しなかったら、遭難だから。
 悪いけど日曜日は一人で過ごしてね。」
金曜日に、母に言い残して帰りました。

結果は50分で完走しました。
途中2度ほど水分補給のために休憩しました。
腿がパンパンになり足が上がらなくなったので、後半はほぼ立ちこぎ状態でした。
体力の限界に近かったですが、不思議と爽快でした。

「今日は一人だと覚悟していたの」
真っ赤な顔をして病室に入った私を見て、母は言いました。
午後から母を外に連れ出し、自慢の白い自転車を見せると
「スゴーイ!」
「拾ったのー?」
「ホントにこれに乗って来たのー?」
「バカみた-い!」
失礼千万ですが、母はとても興奮していました。
私も興奮していました。
ちょっとした冒険でした。

母のおかげでいろんな経験をさせてもらいましが
「あると思って探せば、どこかにあるもんなんだなー」
としみじみ思った出来事でした。


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あると思えば(その1)
2006年 05月 25日 (木) 22:26 | 編集
5月の中旬から私は電車通勤(?)を始めていました。
1ヶ月近くやってみての感想は”歩くのがしんどい”でした。
自宅から自宅の最寄駅までは徒歩25分。
病院の最寄駅から病院までも徒歩25分。
一日計100分、毎日スニーカーでガシガシ歩いていましたが
足の裏が痛くなったり、股関節がポキポキいうようになってきました。
もう若くは無かったのです…いきなりそんなに歩いてはいけなかったのです。
暑くなってくると熱中症も心配だしと、1万円で自転車を購入しました。
自転車屋さんで一番安い新品の自転車でした。

ウン10年ぶりの自転車に最初は恐る恐るでしたが
すぐに慣れて自宅から自宅の最寄駅までは毎日快適でした。
帰りも自宅最寄駅から遠回りをして
ちょっと遊んで帰る事もできるようになりました。
(と言っても本屋に寄るとか、そんなものですが)

そんな生活を続けていると
”やっぱり病院と病院最寄駅の間も自転車があればいいなぁ~”
と思うようになるのは”人間だもの”当然です。
でも実家に自転車を2台買うのもバカらしいです。
母の入院生活はあと3ヶ月。私はその後は元の生活に戻る事になっています。
”誰も使わない新品の自転車が2台”
”年に何回か帰る娘がたまに使うけどね”
”2台もどこに置くのよ”
”もう1万円払うの?”
”でも歩くのしんどい…”

欲望と懐具合とコストパフォーマンスとの間でぐるぐるした私は
”そうだ!貰えばいいんだ!”
と友人たちに声をかけました。
「3ヶ月だけ使わせてもらえる自転車ない?」
「捨てようと思ってる自転車ない?」
「実家の物置に眠っている君のサビた自転車は…」
結果はさっぱりでした。
地方都市の典型で、歩いて5分の所でも
彼女たちはもう自分の足や自転車は使わないのです。

諦めきれなかった私は、行き帰りに見かける自転車屋に片っ端から飛び込み
「中古の安い自転車ありませんか」
と聞いて回りました。
大抵は置いてなくて、たまにあっても7千円くらいしました。
次に狙うは放置自転車です。
(もうあきらめなよwool。という声が聞こえてきそうですが…)
毎朝毎晩、自宅の最寄駅と病院の最寄駅で、ゴソゴソと放置自転車をいじってみました。
あきらかに壊れていると分かるものか、カギがしっかりかかっているものばかりでした。
おまけに自宅の最寄駅駐輪場の隣は交番でした。

放置自転車を荒らし始めて一週間くらい経ったでしょうか。
さすがに無理かなと思い始めた頃、病院からの帰り
自宅の最寄駅から自宅までを自転車でいつもの道を走っていると
ふと白い自転車が目につきました。
ビルに立て掛けてあり、なんとなく捨てられたっぽい風情です。
近くに寄って見てみると、JRの放置自転車用の札が何枚もぶら下がっていました。
そしてその自転車のカギは壊されていました。
”駅駐輪場に長い間放置されていたものを誰かがカギを壊して乗り回し
 もういらなくなったか壊れたので放置した”
この推理で99%間違いないはずです。
自転車は壊れていませんでした。タイヤの空気は抜けていましたが
次の日の朝、家から空気入れを持ってきて空気を入れたら
タイヤはパンパンに膨らんでくれました。
<つづく>

※以前ブログに書いた「片道45分」は自転車を2台使うようになってからの
 所要時間でした。それまでは徒歩&電車で1時間15分位かかっていました。


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自分でパンツを
2006年 05月 23日 (火) 23:29 | 編集
右腕はさっぱり動くようにはなっていませんでしたが
OTとしてのリハビリは、日常生活全てに渡り
車椅子への乗り移りやトイレの仕方にまで及びました。
母はトイレに連れて行ってもらうと
私か介護士さんがズボンとパンツを下してくれるのを待ってから
手すりを持って、自分で便器に座っていました。
終わった後も同じです。
自分で立ちあがるのですが、自分ではズボンを上げられませんでした。

「ちょっとご自分でズボンを下げてみましょうか」
OTの先生が病室でのリハビリの時間に言われました。
まず着衣のままで一人で立ち、上半身を前に倒し
左手でズボンを下すマネをさせました。
そして上げるマネも。
母は初めてなのにちゃんとできました。
ではと言って、OTの先生と三人でトイレに行きました。
先生は個室の外で待っているので
母に自分でちゃんとパンツも一緒に下して座ってみて下さいと言われました。
私がすぐ側で手を広げて、倒れないようにガードする係りです。
やっぱりちゃんとできました。

キツネにつままれたみたいでした。
”なんだできるんじゃん…”
きっともっと前からやればできたんだと思いました。
それくらい自然で危うげ無い動作でした。
「ちょっとした動作が、まだ一日の運動量から見ると身体に負担になるので
 これまではご自分ではしてもらいませんでした」
とOTの先生は言われました。
たったこれだけの動作さえも負担になるとは思ってもみませんでした。
”母は大病をした直後で、本当に何をするのもしんどいんだ”

そしてここに至って初めて
”手が動くようになる。歩けるようになる。しゃべれるようになる”
という事だけがリハビリでは無いんだと気が付きました。
先生たちはいつも言われていた事なのですが
母の腕や足の動きだけにとらわれて、私は全く分かっていませんでした。

歩ける事とトイレの介助とは別の次元の話だと思っていた、アホーな私は
”自分でパンツを上げ下げできればトイレ介助はいらない。母は一人でトイレに行ける”
というスゴイ事実に思い当たり
母が倒れて以来、初めて目の前がひらけたような気がしました。


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杖が来たけど
2006年 05月 20日 (土) 21:29 | 編集
「杖で歩く練習をしてみましょうか?」
六月に入ってすぐに、PTの先生が言われました。
吉岡さんから遅れる事二ヶ月。
転院して三ヶ月たって、やっと杖が母のところにもやってきました。

病棟のリハビリルームに備え付けの杖を使って
母はちょっとPTの先生と歩いてみました。
もちろん先生に後ろからがっちりと腰を支えられながらです。
母は杖のつき方がまずわかりません。
つくタイミングも。
「右足を補助するためですから、右足と一緒に」
と言われてもなかなか…
私も他の杖でやってみましたが、難しかったです。
グラグラして、腕もプルプルして。

「こわーい!」
怖がりながらも母は嬉しそうでした。
「うまく歩けるようになったら、○○さんも廊下で歩きましょう」
PTの先生にそう言われて、私も物凄く嬉しかったです。
”吉岡さんや他の人たちのように、廊下でリハビリができるんだ!”
母の誕生日が六月なので、杖は私からの誕生日プレゼントという事にしました。
真っ黒で太い杖を母は選んだのですが
持ち手のすぐ下にピンクのリボンのシールを貼りました。

そのMY杖でリハビリルームを一週間ほど歩いた頃
「あっ!!!」
PTリハビリ中に母は前に転びそうになりました。
辛うじて身体を小さく丸めて、しゃがんだだけで済みましたが
先生も母の腰を持ったまま一緒にしゃがんでしまいました。
私も咄嗟の事で駆け寄れませんでした。
母はそれで脈拍が増えてしまい、その日のリハビリは中止になりました。
次の日からも、母はその時の恐怖心から杖で歩けなくなってしまいました。
PTの先生は本当に心から、申し訳無かったと謝ってくれました。
後からリハビリ責任者のOTの先生も謝罪に来てくれました。
でも、せっかく杖が来たのに、やっと来たのに後戻りでした。
母の恐怖心が消えるまで当分の間、杖は”封印”という事になりました。

結局その後一ヶ月近く、母は杖を使えませんでした。
母は今でも言います
「アレはいけなかった。先生がいけなかったよ。
 若いから仕方無かったかもしれないけど、アレで随分時間を損したのよ。
 先生がついていて、補助してくれていて転ばしちゃいけないと思うの」
母は先生達の悪口や文句を、それまで一言も言った事がありませんでした。
その母が退院した後まで言うのですから
本当に怖かったんだろうし、本当に残念だったんだろうなと思います。


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母は偉大
2006年 05月 17日 (水) 23:59 | 編集
母より一ヶ月くらい後に、近くの病室に入った30代の女性は
リハビリの様子を見る限り、身体はほとんどなんとも無さそうでした。
でもある時から彼女の病室の入り口に
折り紙で作ったバラの花が飾られました。
それは”ここがあなたの部屋ですよ”という印でした。
彼女はトイレに行く為に部屋を出ると、もう自分の部屋が分からなくなるのです。

坊主頭で、頭の前の方に左右に長い手術痕があったので
前頭葉の手術をされたのだと思います。
記憶も結婚前の若い頃のものしかなく
ご主人も就学前の二人の子供の記憶も無いということでした。
そのためか最初の頃は、ほとんどお父様だけしか面会に来られませんでした。

その女性がいなくなったと病棟が大騒ぎになった事もありました。
みつからないまま、外はどんどん暗くなっていきました。
すると近くの別の病院から、その女性らしき人を保護していると電話がありました。
近くと言っても200メートルくらいはあります。
その病院の駐車場でウロウロしていたそうでした。
どうやってそこまで行ったのか、帰ってきた時には手や洋服に草が沢山ついていたそうです。

入院からしばらくすると、ご主人やお子さん達が面会に来られるようになりました。
彼女は自分の夫や子供たちだという自覚が無いのです。
ですから最初、彼女の態度はとてもぎこちなかったそうです。
でもある時から、彼女の顔つきが変わったそうです
ご主人だけが面会に来た時は相変わらずなのですが
子供たちが一緒に来た時は、いつものぼんやりした顔が
一瞬でキリッとした顔になったそうです。

自分の子供たちだとは、相変わらず思い出せないのです。
結婚した事さえ覚えていないのですから。
でも自分は母親なんだという、新しい自覚がそうさせるのか
実は無意識下で覚えているのかは分かりませんが
彼女と同室の20代の女性は
「たいしたもんだわ」
といつも言っていました。

私と同じ位の年の女性なので、いつも気になっていましたが
彼女とは一度だけしか言葉をを交わせませんでした。
本当に本当に蚊の泣くような小さな声でしたが
とてもしっかりとした声でした。


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おまけで合格
2006年 05月 14日 (日) 00:15 | 編集
五月最後の日の朝、いつものように病室に行くと、母は泣きそうな顔をしていました。
私が来るのが今日で最後になるかもしれないと思っているからです。
私は母に最後通牒をつきつけてから、いっさいその話はしませんでした。
母が右足を上げる練習をするのも、見て見ぬ振りをしていました。

お昼ご飯が終わって歯磨きも終え
いつもならSTに備えて30分の昼寝をする時間に、母は言いました。
「ずーっと夜も練習してたの。まだできてないけど見てね」
そして私の目の前で、フンッフンッと右足を身体全体の勢いで上げ始めました。

最初はかかとだけ浮いて、つま先は床に着いている状態でした。
数回もやっているとつま先も浮くようになりました。
そして10回くらいやったでしょうか、なんだかステップに乗る位に足が上がっていました。
”本当に夜もやっていたんだな”
私は関心しました。
でも上がるだけではステップには乗りません。
高く上げて同時に右に動かさないとステップには乗らないのです。

母の顔は必死です。こんな顔は見たことが無いほど。
ひときわ右足が高く上がったと思ったら
右足の裏がステップの角に引っ掛かりました。
その状態で母はさらに右足を上げようとしましたが、右足は床に落ちてしまいました。
母は悔しがって顔を歪めて泣きました。
もうちょっとだったのにと思ったのでしょう。
ひとしきり泣いてから
「疲れたから夕方にまたやるね。また見てね」
涙でぐしょぐしょの顔で母は言いました。
母はまだ諦めていませんでした。

それを聞いて私は言いました。
「もういいよ。本当に夜も練習していたのは分かったから」
「えっ?まだできるよ。夕方もやるから、もうちょっと待って!
 今度はきっとできるよっ!絶対できるよっ!……うわ~ん!!!」
母は、私がもう見てくれないのかと思って、せっかく泣き止んだのにまた泣き出しました。

母の足の上がり具合。
そこから想像される練習量。
必死の母の顔。
一度失敗しても諦めない母の態度。
それらを見ていて、なんだか私はすっかり肩の力が抜けてしまったような気がしました。
今朝までは明日にも引き上げようと思っていたのに、不思議でした。
足が上がらなかったら”バイバイ”だと心に誓っていました。
(そして絶対上がらないと確信していました)
私は母の本気が見たかったのかもしれない。
自分の手足が思うように動かなくて
心底悔しがる姿を見てみたかったのかもしれない。

”イヤイヤ”と大泣きする母をなだめて
”私は帰らないから大丈夫”
と納得させるのにかなり時間がかかりました。
本当に本当に、母は必死だったようでした。
必死になったら、本当に三日で足が上がるようになるんですね。
ビックリでした。
もちろん足上げ運動はその日以来現在まで、封印したままです。


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本当の気持ち
2006年 05月 11日 (木) 19:34 | 編集
私が母を酷い言葉でなじって泣かせた日から
母は車椅子に乗るたびに、右足を自力でステップに乗せようと努力し始めました。

本当はそんな事はやってはいけない事でした。
そんな事ができるようになっても、歩行に関して何の特にもならないし
それどころかリハビリの障害になるだろうという事は
それまでに読んだ沢山の本や、リハビリの先生方のお話で十分に分かっていました。
でも私はその時、本気で引き上げるつもりだったので
三日間くらい母が無理をしても、少々足が痛くなってもどうでもいいと思っていました。
出来ないと分かっていて、ムリな課題を出したのですから。

「イヤー。帰ったらイヤー」
顔をくしゃくしゃにして泣きながら、フンッフンッと足を上げている母は
冷静に見ていると滑稽でさえありました。
半月も前なら、私も一緒に泣いていたかもしれません。

そもそも、母はこんな人ではありませんでした。
三人いる子供達に、自分の望みを言ったことはありませんでした。
「私は何も欲しいものは無いよ」
「お盆には帰ってこなくてもいい。お金がかかるから」
「電話代がかかるからもう切るよ。そんなにかけてこなくてもいいよ」

自分の母親の葬式の時は、長男には帰ってこなくてもいいと言い
次男には知らせもしませんでした。
私は怒って、母に連絡だけはさせました。

そんな母が泣きながら”帰っちゃイヤー”と言っている姿を見て
”本当はこういう人なのかもしれない”
”きっとずっと淋しかったのかもしれない”
”病気のせいでいつもは隠してる気持ちが、全部出ちゃっているのかな”
”どうしてもっと前から自分の気持ちを外に出さなかったんだろう”
”だからこんな病気になってしまったんだ”
と思いました。


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ついに爆発
2006年 05月 10日 (水) 13:10 | 編集
五月の下旬。
また少々母の体調が悪くなりました。
大した事はないのですが、リハビリが出来ません。

「なんだか頭がボヤーっとするの」
「目の前がユラユラしてるの」
母はOTの先生に訴えます。
するとOTの先生は絶対に無理をしません。
リハビリ責任者なので、PTやSTのリハビリとも連携し
症状が治まるまではしばらくのんびりモードで行くことになりました。

体調というよりは、私には母の気力が落ちてきたように感じました。
甘えているのかも?と思う事もありました。
今思うと、母も慣れてきて『中弛み』の時期だったのでしょう。
のんびりモードが少し続くと、私は段々ガマンができなくなりました。
なにしろ私は『先走りすぎ吉岡さん』を素晴らしい!と尊敬していましたし。

父と私の間でももうずーっと、母の事やその他の事で反目状態が続いていたのもあって
とうとう私は爆発してしまいました。

「私をバカにしてるの?私には何でもしてもらえると思っているの?
 ただで便利に使える召し使いだとでも思っているの?」
「二人して私をそんな風に見ているのなら、私にも考えがある」
「お母さんはなんでこの病棟にいるの?リハビリしないなら、ここにいる必要は無い。
 出来ないんじゃなくてやる気がないんでしょ?」
「ずーっとそうだったじゃない。そうじゃない時があった?」

母を責めました。
一人では車椅子にも乗り移れずトイレにも行けない母を。

”私がこんなにもしてあげているのに、母はちっとも良くならない”
”それどころかやる気も無い”
”父まで私をいいように使って、自分は一日中趣味の事をしている”
”父は全てを私にさせ、それなのに私の意見は絶対に聞かない”
”生活が変わったのは、変えられたのは母と私だけ”
”父と弟達は全く変わらず今まで通りやっている”
”こんなのはもうイヤだ!!!”

これがその時の私の心の中でした。
その頃の私の心の支えは、母が少しでも元の身体に戻るという希望だけでした。
でももうすぐリハビリ病棟に入って三ヶ月が経過してしまうというこの時期に
またもやの停滞で、なんだか虚しくなったのです。

母の右足は車椅子に座った状態では、ほとんど動きません。
車椅子に乗った時は、いつも私が右足をステップに乗せていました。
「六月までに右足を自分で乗せる事が出来なかったら、私はここを引き上げて帰るから」
六月までは三日しかありませんでした。
「三日で出来ない人は三ヶ月たっても出来ないよ」
「そうでしょ?お母さんは三ヶ月でほとんど良くなってないでしょ」
「じゃ頑張って」

私は母に最後通牒をつきつけました。


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勝利?
2006年 05月 07日 (日) 22:36 | 編集
母のいる病室は二人部屋で
ナースステーションからは遠く、病棟の奥の方にありました。
近くの病室は二人部屋とトイレ付きの個室ばかりで
比較的状態の良い患者さんが入るエリアでした。
母は私という付き添いが一日中いるという事で
特別にこのエリアの病室に入っていました。

母は五月の下旬当時、まだ病棟内にあるリハビリルームでPTリハビリを行っていましたが
近くの病室の患者さんたちは、廊下でPTリハビリをしていました。
廊下の方が長い距離歩けるし
「リハビリルームで歩けても仕方がありません。
 実際の生活の場で歩けて、身の回りの事ができるようになるのを
 お手伝いするのが私達の仕事です」
「ですから出来るだけ、現在の毎日の生活の場である
 病室や廊下でリハビリを行います」
というリハビリ責任者のOTの先生の考えがありました。

みなさんがしっかりと廊下を歩いているのを、私と母は一日に何回も見ていました。
母より遅く入ってきた人も、どんどん歩けるようになっています。
母の目標の吉岡さんも、もちろん廊下でのリハビリでした。
吉岡さんはPTリハビリの時はちゃんと杖を使うのですが
それ以外の時は杖無しで歩いていました。
本当は杖どころか一日の運動量などの関係で
必ず車椅子を使うように言われていたのに
先走って杖無しで歩いていました。

将来の歩行の安定や歩き方の事を考えたら
PTの先生の言う事を聞くほうが良かったのかも知れません。
きっとそうなのでしょう。
力任せに歩けるようになったとしても
身体に負担のかかる歩き方と言うのもあると聞きましたし。
でも先へ先へと進まずにおれなかった吉岡さんの気持ちが、私には良く分かりました。
私も自分だったらそうすると思いました。
吉岡さんは車椅子に座ってはいられなかったのです。
先生たちの言う事を聞いてはいられなかったのです。

吉岡さんは介護保険の認定時にも
「できます」
「自分でできます」
「やっています」
を連発し、一番最初の認定で『要介護1』を勝ち取り(?)ました。
「出来ないことも勝手に出来ると言って、要介護1になってしまった」
奥様はとっても嘆いておられました。


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天然?
2006年 05月 06日 (土) 21:33 | 編集
母がベッドから車椅子に乗り移るの介助する時
ベッドに座ったままで、まず靴を履かせます。
「これは何?」
毎回履かせる前に靴を指さして、私は母に聞きました。
「う~んとねぇ…」
「……」
「あのねぇ~」
「……」
「もうおしっこが漏れそうだから、連れってって!!!」
大抵こんな感じになりました。

時には
「えーとねぇ…」
「……」
「あのね…」
「……」
「あっわかった!靴下!!!]
「…………」
私が母の足元にしゃがんだままで思いっきり変な顔をしても
母には何故だか分かりません。

そして時には
「うーんとね…」
「……」
「なんだったかな~」
「……」
「私はちゃんと知ってるのよ」
「……」
「あっパンダ!!!」
「…………かわいいね」

今ではちゃんと『靴』と言えます。
時々度忘れしますが、少しすると思い出します。
なので私が”こんなにあなたは面白かった”と言っても母は信じません。
とても都合のいい、母の脳です。


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偶然?
2006年 05月 04日 (木) 12:12 | 編集
五月の終わり頃のとてもお天気の良い日。
私は初めて母を屋外に連れ出しました。
母を車椅子に乗せてエレベーターで一階に下り、20メートル位の散歩をしました。
所要時間15分。

病棟を出た所は来客用駐車場になっていて見るべき物は何もありません。
道路の横っちょに雑草や花が生えている程度です。
それでも母は
「うわあ~…」
と言ってキョロキョロしていました。
「まぶしいよ~」
何ヶ月も屋内にいる身には、五月の太陽は刺激が強すぎるようでした。
大きな木の下に移動し、私は母に疲れていないか聞きました。
「だいじょぶ。うわぁ…」
母は手を伸ばしてタンポポを取ろうとしますが
手が届かないので私が取って渡しました。

何をするという訳でもなく
「初めてだね~」
「すごいね~」(何が?)
「まぶしいね~」
としきりに母が言うので、私は相槌をうっていただけでした。

また今度来ようね、と母に言って車椅子を押して病室に戻ると
母がタンポポを良く見える所に飾れと言いました。
「私が初めて外に出た証拠」
コップに入れて置いておくと、しきりに眺めては
「すごかったね~」(だから何が?)
と感慨深げにしていました。
夜に父が来たら自慢するとも言っていました。

確か次の日が土曜日で、私は病院に行きませんでした。
一日おいて日曜日の朝病室に着くと、母は私の顔を見て興奮しています。
一生懸命左手を振って、私に何事かを訴えます。
それでなくても分かり難いのに、こんな時は何を言っているのかさっぱり分かりません。
「アレアレ」と時計を指差すので(時計という単語は出てこない)
時計がどうかしたのかと聞くと
なんと、時間が読めるようになったと言うではありませんか。
「昨日、いきなり分かるようになったの。
 見たら何時何分って分かったの」

母は物凄くうれしそうでした。
「あなたが外に連れて行ってくれたおかげ」
ファンタジーやロマンティックという単語が辞書に無い私は
”そんな事はないだろう”と心でつっこみましたが
優しく、うんうんそうだねと言っておきました。
介護保険の認定に市から人が来たのが少し前で良かったと思いました。
もしその時時計が読めていたら、ひょっとしたら要介護度が下がっていたかも知れないので。


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介護保険の申請
2006年 05月 03日 (水) 23:55 | 編集
そろそろ介護保険の申請をした方がいいと言う事で
病院側が市に連絡をしてくれました。
後日来られた市役所の方は、五十代位の女性でした。
母はベッドで背を起こした姿勢で審査を受けました。

・時計を見て時間を覚えてもらい、後で聞く
・自分の名前を言わせる
・病院の名前を言わせる

母の言う事はまだあまり人には伝わり難いので主に私が答えたのですが
上記のように母に直接答えさせるものは全滅でした。
「知ってるはずなんだけど、どうやって見るのか分からないの」
時計に関しては本人も不思議そうですした。
相変わらず自分の名前も言えず、ここが何処かも言えず
娘の名前も言えませんでした。

母の身体や日常の動作に関しては、いろんな人から
「ちょっと悪く言っておいたほうがいいわよ」などとアドバイスを受けましたが
担当医やリハビリ担当者にも話を聞くとの事だったので
どうせバレると思い、正直に答えました。
と言っても母のできる事は本当に限られていましたけれど。
「できます」と言えたのは”自分で食事ができるか”くらいだったと思います。

母が倒れてから三ヶ月以上が経過し
随分私もこの状況に慣れてきたと思っていたのですが
沢山の質問に「できません」と答えていくうちに、ちょっとヘコみました。
改めて母の障害の重さを思い知らされました。

何週間かして送られてきた決定通知は「要介護4」でした。


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甘い誘惑
2006年 05月 01日 (月) 09:17 | 編集
『○○で脳梗塞が治る!』
『一週間で自転車に乗れた脳卒中患者』
『全ての病気が△△で治る』

週に一度図書館に行くようになると、気分転換のはずだったのに
こんな本が目について仕方がありませんでした。

・73歳男性 脳梗塞
          キトサンカプセル5粒粒ずつ→朝昼晩
          キトサンオリゴ糖スティックタイプ(600㎎)一袋
          オリゴ糖ドリンク(キトサンオリゴ糖350㎎)2本
・45歳男性 脳出血の後遺症
          キトサンドリンク2本、オリゴ糖スティック2本→朝
          キトサンドリンク1本、スティック2本→昼
          ドリンク2本、スティック4本、カプセル15粒→夜

こんな記述が私のメモ帳にいっぱいになってしまいました。
これは”キトサン”に関する本を読んでいた時のものです。
他にも”ギャバ”とか色々ありました。

私は日頃ビタミンCやカルシウムくらいは摂っていましたが
基本的にはこういう類の本は”トンデモ本”として相手にしていませんでした。
でもこの時はまんまとつかまってしまいました。
ええ、買いましたキトサンの錠剤を。ファ○ケルで。

結果的には、母はこういうモノが嫌いでほとんど飲んでくれなかったので
せっかく買った一袋を飲み終わる事はありませんでした。
父もビタミン剤が大嫌いで、私がビタミンCを飲むのさえやめろと言っていたので
バレる前にやめてしまいました。

世の中には本当に治る人もいるのだと思います。
私としては”ダメもと”の気持ちだったのですが
やはり”これできっと治る!”という気持ちが本人になければ
お金を捨てる事になるんだなと思いました。
         
実は一緒に”記憶サポート”というサプリも買ったのですが
そっちはもったいないので私が全部飲みました。
成分は、DHA、いちょう葉エキス、レシチン、こめ油、ギャバ、蜜ろう、V.B6
V.B12などなど。
一袋飲んだくらいじゃ効かなかったみたいです…


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