お母たまと私 -母と娘の脳卒中リハビリ日記 外伝-
2004年2月に脳卒中(脳出血) で倒れ右片麻痺になった母と私の七ヶ月間にわたる リハビリの記録と、それからの事。
スポンサーサイト
--年 --月 --日 (--) --:-- | 編集
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
私の休日
2006年 04月 28日 (金) 23:27 | 編集
二月に母が倒れて以来、四月に一度五日間こちらに帰っていた期間以外は
毎日一日も欠かさず、朝から母の病院に通いました。
でも五月の半ばから、私は週に一日だけお休みをもらう事にしました。

土日はPTとOTリハビリはお休みなのですが
STは日曜日と月曜日がお休みで、土曜日はリハビリがありました。
なので土曜日を私の休日にして、誰も来てくれない日曜日は
今まで通りに通う事にしました。

週に一日でも母の世話ができないのは不安でしたが
三ヶ月経って身体が少々辛くなり始めました。
緊張が取れてきて、身体に不具合が出てきたのだと思いました。
それに毎朝父に車で病院に送ってもらって、夜また迎えに来てもらって家に帰る。
という生活が続いて、息が詰まり始めたのです。
病院の周りにはスーパー以外何も無く、病院の中にお茶を飲む所もありませんでした。
気分転換ができなかったのです。

土曜日はそれまで病院でやってもらっていた母の衣類の洗濯と、掃除を午前中に済ませ
午後は図書館に行ったりして過ごすようになりました。
また、毎日の病院への行き帰りも電車に変えました。
車だと片道20分のところを、自転車と電車とで45分くらいかかってしまいましたが
まるで毎日他の人達と一緒に通勤しているみたいで、随分と閉塞感が減りました。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ
スポンサーサイト
お見舞いって難しい
2006年 04月 27日 (木) 14:00 | 編集
この頃になると今まで遠慮して下さっていた方たちが
どんどんお見舞いに来られるようになりました。

リハビリが一日計5回。
その他お風呂があったり、看護師さんが熱を測りに来たりと
何かとスタッフの出入りが多いので、大体の見舞い客の方は
「お忙しいでしょうから、そろそろ…」
と言って下さるのですが
中には長時間帰られない方もいました。

その方は母の”習い事その3”のお友達で、かなり仲の良いお友達でした。
母が倒れる2週間前にも、二人で泊りがけで美術館めぐりに行っていましたし
奈良や京都にも一緒に旅行に行くほどの仲でした。
”習い事その3”の先生とお友達の面々は、その少し前に集団で来られていたのですが
「私、取り乱してしまうかもしれないから、皆さんと一緒には行けない」
と言われたそうで、後日お一人で来られたのでした。

お言葉通り、母の顔を見てわんわん泣かれました。
母もつられて泣き出しました。
二人で手を取り合い、それはそれは濃い時間が流れました。
こういう時に限ってスタッフは誰も来ません。
「何か用事がある振りをして来てもらえませんか」
と、もう少しで頼みに行くところでした。
軽く一時間はおられたと思います。
母はその間車椅子に座ったままでした。
たまたま私がトイレに連れて行って、帰ってきた直後だったのです。

「つかれた…」
そのお友達が帰られた後、母はしみじみと言ってベッドに戻りました。
母もとても嬉しかったのです。一番目か二番目に仲の良いお友達なのです。
それでも、一時間は長過ぎました。

お見舞いって本当に難しい。
弱った姿を見られたくないという人もいれば
どうしてすぐに飛んで来てくれないのかと憤る人もいるし
淋しいのでもっといて欲しいと思う人もいるだろうし。

沢山の方にお見舞いに来て頂きましたが
今でも私は、見舞う立場になったらどうすればいいのか分かりません。
本人のご希望をお聞きすれば良いのでしょうが、本人と直接連絡が取れない場合は
ご家族のご希望になってしまいます。

身近な人が入院しない事を願うばかりです。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ
飛んで来たのに
2006年 04月 26日 (水) 00:32 | 編集
母が倒れてから丸3ヶ月がたちました。
5月10日です。

毎日お昼ご飯の後、少ししてからSTリハビリが始まります。
この頃からカードに書いてある絵の名前を言うだけではなくて
スケッチブックに鉛筆で、自分の名前や家族の名前を書く練習をするようになりました。
スケッチブックは急性期の病院にいた頃から使っていたものでした。
急性期の病院では、最初の頃全く母の言葉が理解できず
なんとか意志の疎通を図ろうと、色鉛筆と一緒に病室に持ち込んだのでした。

STの先生が母の名前を聞きますが、母はもちろん答えられません。
苗字を言ってもらっても名前は出てきません。
「○○子さんっておっしゃるんですよ」
「あーそっか。私は○○子なのねー」
本当に自分の名前だと自覚しているのかは疑問でした。
続いて夫の名前子供たちの名前と続きますが、同じような反応です。
それでも先生に漢字を教えてもらい、その通りに左手で書きます。
母は家族分名前を書き終えて、感慨深そうに眺めていました。

”自分の名前を思い出せない”
”教えてもらってもピンと来ない”
という事がどういう事なのか、どういう気持ちなのか
私には見当もつきませんでした。
「誰かは分かっているんだけど、知ってるはずなんだけど
 名前は出てこないの」

「おつかれさま」
STリハビリが終わって、コンビニで毎朝私が買って来る”いちごオーレ”を
ベッドで背を起こしている母に、いつもの様にコップに入れて渡しました。
母は自分と家族の名前が書かれたスケッチブックをまだ眺めていました。
「今日はお母さんが倒れてからちょうど3ヶ月なんだよ。
 こんな事になるって分かっていたら
 3ヶ月前のあの日の前の晩に、飛行機で飛んで帰って来て
 ”明日は絶対出かけないで!”って言って
 お母さんが嫌がっても、怒っても絶対家から出さなかったのにな」

母は途端に顔をくしゃくしゃにして泣き出しました。
泣くだろうと言う事は分かっていました。
でも何故だか3ヶ月経ったこの日、これまで1週間目2週間目
1ヶ月目2ヶ月目にいつも考えずにはいられなかったことを
母にぶつけてしまいました。
これが多分、私が母を泣かせた最初だったと思います。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ


身近な目標
2006年 04月 23日 (日) 20:19 | 編集
母より五日ほど早く、回復期リハビリ病棟に転院していた男の患者さんがいました。
母より二つ年下の同世代で、同じ右片麻痺なので最初から注目していました。
最初の頃、リハビリルームで一緒になった時に見た限りでは
下肢の麻痺の程度は母と同じ位でした。

吉岡さん(仮名)というその男性はいつの間にか杖でトイレに行くようになっていました。
最初に見たのは四月だったと思います。
奥様が常に隣に付き添っていました。
「リハビリの時間しか杖を使ってはダメと言われているんだけど
 どうしても杖で行くって聞かないのよ」
奥様はこぼしていましたが
転院して一ヶ月で杖歩行のリハビリにまでこぎつけたと言う事です。

”毎日ちゃんとリハビリできる事が目標”
”でもまだ週のうち半分くらいしかできていない”
母のその頃の状態と比べると、一ヶ月間で天と地ほどの差が開いたように
感じられました。
そしてそれからまた一ヶ月後の五月には、食堂にも杖で来られるようになり
晴れて杖歩行が解禁になったようでした。

「回復の速度と程度は人それぞれで、平均化することはできない」
というリハビリ責任者のOTの先生の言葉を、この時に痛いほど実感しました。
そして年も麻痺も同じ位だという親近感が少しずつ薄れ
吉岡さんは母と私の一番身近な目標になりました。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ



お風呂が憎い
2006年 04月 21日 (金) 22:36 | 編集
五月に入り、地元病院の回復期リハビリ病棟に転院して二ヶ月がたちました。
体力も徐々にですがついてきて、毎日のリハビリはなんとかこなせるようになりました。
ただし、月曜日と金曜日を除いては、です。
月曜日と金曜日はお風呂があるのです。

女性が午前で男性が午後の日と、その逆の日がありました。
午前か午後かが分かっていても、いつ介護士さんが迎えに来てくれるかはわかりません。
母はお風呂の直後だと、疲れてPTリハビリがまともにできないのです。
「今日は足が出ませんね」
「昨日の夜眠れませんでしたか」
PTの先生はしゃきっとしない母に、優しく聞いてくれます。
「お風呂で疲れたの…」

”疲れたのじゃないの!やるのよっ!”
私はほんわかム-ドの二人を見ながら心で叫びました。
”なんだかだるいの。頭がふらふらするの。じゃないわよっ!
 もう二ヶ月経ったのよっ!あと四ヶ月しかないのよっ!
 お風呂なんか入らなくてもいいっ!
 死んでもいいからやりなさいっ!”

私の心の叫びは二人には届きませんでした。
その日の午前中のPTリハビリは中止になりました。
PTの先生は絶対に無理をしないのです。
「体調が万全でないと、疲れさせるだけで効果はあがりません」
それがリハビリ責任者のOTの先生の方針なのです。

次の週から私は、月曜日と金曜日は廊下に並ぶようになりました。
介護士さんが迎えに来るより前に、母をお風呂に入れてもらうためです。
長い時間車椅子に座れない母の代わりに
キャスターベッドや車椅子の患者さんたちに混じって並びました。
私が並んだところで、順番を守っていない事に変わりは無いのですが…
これは母の退院まで続きました。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ
またまたヤングが
2006年 04月 19日 (水) 22:18 | 編集
お隣にぼうやが入院してから一週間後くらいに
今度は続けて、二十代の女性と三十代の女性が入院しました。

二十代の女性は歩けるし喋れるのですが
言われてみれば、右側が若干不自由そうでした。
最初から個室に入りました。
三十代の女性は坊主頭で頭の前の方に、痛々しい手術痕がありました。
そして最初は車椅子に乗っていました。
この女性は私の母と同じように、二人部屋に一人で入りました。

入院患者さんの情報は、看護師さんや介護士さんが何かの折に
話してくださる(前述のぼうやの騒ぎのような時など)以外は
基本的には知りようが無いのですが
二十代の女性とは、少ししてからお話をするようになったので
彼女自身の事や三十代の女性の事情を知りました。

二十代の女性が言うには、彼女は子供の頃から”てんかん”を持っていて
頭に小さなチップのようなモノを入れる手術をした。
その手術は大学病院で二度に分けて行われ
二度目の手術から目覚めた時には、不自由な身体になっていたとの事でした。

毎日旦那様が仕事帰りに来られて
旦那様が帰る時彼女は、病室のドアの所で旦那様が見えなくなるまで
左手を振っていました。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ
What's your name?
2006年 04月 18日 (火) 00:21 | 編集
転院して二ヶ月近く経っても、母は自分の名前が言えませんでした。
もちろん自分の子供や自分の夫の名前も言えません。苗字も名前も。
生まれた土地もお嫁に来てから三十年以上住んでいる土地の名前も。
母にとって、名詞という名詞は全て
”知っているはずだけど出てこないの”
というものでした。

私はそれに対してかなり危機感を持っていたのですが
本人は割と飄々としたものでした。
自分の手や足が動かないという事実と比べると
あまり落胆しているようには見えませんでした。

ゴールデンウィーク前のある日
ベッドで背を起こしていた母の手を取り、指を広げ
「この指はなんていうの?」
と聞いてみました。
「…おや…ゆび?」
「となりは?」
「…ひ・ひとさし…ゆ・び?」
「それじゃこれは?」
「…………」

少しの沈黙の後、母はワーッと泣き出しました。
顔をくしゃくしゃにして。
毎日泣いていたけれど、具体的に何かが出来ないと言って泣いたのは初めてでした。
当分泣き止みませんでした。

”こんなものの名前も分からないなんて”
”本当に頭がバカになってしまった”
と言って泣きました。
そして膝の上に広げた自分の指に向かって
「あなたのお名前はなんですか?」


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ



めきめき
2006年 04月 15日 (土) 23:40 | 編集
隣の部屋の18歳の男の子の事を、母は”ぼうや”と呼んでいました。
私やリハビリの先生との会話の中だけですが。
「今日の朝早く、ぼうやが暴れていたよ」
「ぼうやが一人でトイレに行こうとして大変だったよ」
自分の子供達よりもずっと若いのですから、そう呼びたくなるのも納得です。

そのぼうやは、一週間もすると徐々に落ち着き始め
早速病室の外でリハビリを始めました。
病室で叫ぶ事も滅多に無くなりました。
若いだけの事はあります。日に日に良くなっているのです。
”先週までトイレには車椅子で行っていたのに、今週はナースコールを押して
 看護師さんを呼んで、なんとか手すりつたいに行こうとしている”
”この前までは、こんにちはと挨拶しても視線が合わなかったのに
 今日は目が合って頭を振ってくれた”

めきめきと音がしそうなくらいでした。
母は一ヶ月前と比較しても、もしかしたら体力はついているのかも知れないけれど
手足と言語に関してはほとんど進歩が見られないのに。

PTの先生は若くておしゃべりが得意で
でもそれなりに経験のある先生が担当になりました。
回復期リハビリ病棟始まって以来の若い患者さんだったそうです。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ
ニューフェイス
2006年 04月 13日 (木) 21:03 | 編集
四月の中頃、隣の病室に高校生くらいの男の子が入院してきました。
最初の三日間は、母親らしき女性が夜には泊まり込んでいましたが
「たすけてー!」
「誰かたすけてくれー!」
「殺されるー!」
誰もいない昼間、彼は大声で叫びました。

私は驚いて、すぐに母の部屋のナースコールを押し
介護スタッフを呼びました。
病室の外で気配を伺うと、どうやら喉が乾いて死にそうだとの事。
”たすけて、殺される。というのは何だったの?”
昼間、彼は何度も不穏な言葉を叫びます。
最初は放っておくのですが、あまり続くと母が昼寝から起こされたり
STリハビリに支障がでるので、その時はナースコールをしました。

師長さんの話によると
彼は自分がどこにいるのか、何故身体が動かないのか何故一人ぼっちなのか
よく分かっていないという事でした。
頭が混乱していて、手は動くのにナースコールを押すことも出来ないので
何か不都合があると”たすけててー。殺されるー”と叫んでしまうそうなのです。

母が入っている二人用の病室や個室は
ナースステーションから離れた病棟の奥にありました。
基本的には、自立した患者やそれに近い病状の患者。
または母のように一日中付き添う家族がいる患者のための病室です。
安眠を求めて部屋替えをしたのに、今度は昼間が大層にぎやかになってしまいました。

傷はよく分からなかったのですが、丸坊主だったので
きっと大学病院で手術をしたのだなと思いました。
高校を卒業してすぐ、スクーターで事故にあったという事でした。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ
床ずれの赤ちゃん
2006年 04月 11日 (火) 22:16 | 編集
母はたびたび体調を崩し、歩行のリハビリが中止になりました。
そんな日はPTの先生が病室に来てくれて
ベッドの上で、母の身体全体や足の運動だけしてくれました。

「かかとが赤くなっています」
PTの先生が母の右足のチェックをしている時言われました。
私も見てみると、赤と言うか赤紫というか
確かに右のかかとが、うっ血したみたいに色が変わっていました。
どうしてもベッドの上で、右足は動かないのでそうなってしまったのでしょう。
PTの先生はリハビリ後
「スタッフに伝えておきます」
と言って帰って行かれました。

すると午後のOTのリハビリの時に、OTの先生と師長さんが来て
なにやら母の足元で相談をしています。
「気が付かなくて申し訳ありませんでした。
 今日からはこの枕を足首の下に敷いて様子をみてください」
師長さんがそう言われ、小さい枕を敷いてくれました。
これで母の右のかかとは、軽く浮いた感じになりました。

私はそんな大事だとは思っていなかったのですが
「これは床ずれの前段階で、放っておくと立派な床ずれになります」
「右足は麻痺しているので痛みを感じてらっしゃいませんが
 本当だったら痛いはずです」
師長さんが帰った後、OTの先生が言われました。

そこで初めて、右手右足の感覚が無いと言う事は
動かないと言う事以外にも
様々な問題を抱えていることになるのだなと実感しました。
寝ている間に右足がベッドの柵に挟まっても分からないかもしれない。
右手を身体の下に敷いてしまっても、気が付かないかもしれない。
入院中は無いかもしれないけれど、火傷をしたり切ったりしても
治療をするのが遅れるかもしれない。

かかとのちょっとした変色によって
なんだか、またまた心配の種が増えてしまいました。
それにしても、毎日朝から晩まで側にいて気がつかないなんてと
その日は夜私を迎えに来た父に、こってり叱られてしまいました。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ

初カンファレンス
2006年 04月 09日 (日) 15:20 | 編集
月に一度”カンファレンス”がありました。
担当医、師長、担当看護婦、PT、OT、STが集まって、状況説明や今後の予測
家族からの質問などに答えてくれるのです。
月に一度と決まってはいましたが、転院した直後の三月は無かったし
たまに抜けた月もあったりと、割とアバウトに行われていました。

最初は四月でした。
もちろん患者自身が出席した方がいいのですが
「私はいいの」
と言って母は出たがりませんでした。
まだまだ車椅子に長時間座っているのは辛い時期でした。
そして何より、説明されてもあまり理解が出来ないであろうと思いました。

担当医からは
「再出血の可能性はもちろんあります」
「でもそれを予測することはできません」
リハビリ責任者のOTの先生からは
「手首や指のハレ、肩から下の痛みが相変わらずあります」
「痛みやこわばりは、長引くと半年から一年かかることもあります」
など母の身体についての説明がありました。
PTやSTの先生が何と言われたかは、書き残していないのですが
きっといい話も特に悪い話もなかったのだと思います。

師長と担当看護婦からも、日常の母についての説明がありましたが
私が毎日朝から晩までついているので、特に目新しい報告はありませんでした。

こちらから聞きたいことは、なんと言っても右手足の回復の予測ですが
「個人差があり今の段階では”ここまで治ります”とは言いかねます」
「でも出来る限り○○さんが日常生活に困らないように
 自分の事がご自分できるようになるように、手助けをします」
OTの先生が言われました。

救急病院での担当医と同じく、医療関係者は具体的な事は何も言いません。
希望的観測でモノを言うと、後で困るのでしょう。
それでも毎日の先生たちの働きを見ている私は、このままこの病院に
母をお願いする気持ちに変わりはありませんでした。
リハビリ担当者の腕がいいかどうかは、私には全く見当がつきません。
でも真剣にリハビリにあたってくれているという事は感じていました。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ

こんなのはじめて
2006年 04月 07日 (金) 23:02 | 編集
「専用の装具を作りましょう」
転院して一ヶ月が過ぎた四月の初旬、PTの先生が言われました。
それまではリハビリルームに備え付けの
ちょっと大きめの装具を右足にはめて、歩く練習をしていました。
足がだらんと垂れ下がって、歩く時につま先が引っかかってしまうので
足首を90度位に固定する装具です。

早速、義肢装具士の男性が母の右足の型を取りに来ました。
PTの先生と義肢装具士さんが母の足をチェックして
今まで仮にはめていた装具よりももっと短い
足首だけを固定するような装具にするとの事でした。

ベッドに寝た母の右足に包帯を巻いて、その上に石膏を塗って足型を取ります。
テレビでしか見たことが無い、小学校の工作の時間のような作業が
ベッドの上で繰り広げられました。
どれくらいじっとしていなければならなかったかは忘れましたが
「終わるまで絶対どこにも行かないでね。一人にしてはダメ」
母はしきりにそう言いました。

義肢装具士さんは石膏が乾くのを待つ間、色々と母に話しかけてくれました。
母が自分と同い年の60歳だと言う事が分かると
「ダメじゃないですが。人生楽しいのはこれからなのにこんなことになっちゃ」
「私も今が一番楽しいですよ。仕事もメインは子供に譲って、これからは悠悠自適です」
「でも大丈夫。この装具ができれば、また歩けるようになりますよ」
と励ましてくれました。

一週間くらいで装具は出来上がりました。
義肢装具士さんが病室に来て、出来あがった母の装具を袋から出しました。
「うわっ!」
「えっ!」
「しゅごーい」
順番に、PTの先生、私、母の発言です。
出来上がった装具はピンク色だったのです。それも割と濃い目の。
「せっかくなのでピンクにしてみましたよ。可愛いでしょう」
仮にはいていた装具が肌色だったので
自動的に肌色しか想像していなかった私達はビックリしました。
色は衝撃的でしたが、装具は母の足にピッタリ合いました。

「僕、こんな色の装具は初めて見ました」
「でも目立つし、可愛いですよ」
装具士さんが帰った後、PTの先生はそう言ってフォローしてくれました。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ

地獄の入り口
2006年 04月 06日 (木) 20:20 | 編集
母が倒れた直後から、沢山の脳梗塞や脳出血の本を読みました。
最初の二ヶ月はネット環境が無かったので、情報源は書籍だけでした。

上肢は下肢に比べて回復が難しいこと。
言語は身体に比べると長い期間かかっても、少しずつ回復する可能性があること。
などの知識を頭に入れてリハビリ病院に転院したので
私は母の手足の機能回復にとてもこだわっていました。
発病から三ヶ月、六ヶ月がある程度のめやすになる。という事も知っていたので
転院して一ヶ月も経つと、私は猛烈にあせり始めました。
「三ヶ月後まであと一ヶ月しか無い!」

”右手の回復には、それ以前の問題が山積み”
となれば、あとは右足しかありません。
毎日二回のPTリハビリを見ている私には
右足がスムーズに出るようになったとか、長い距離が歩けるようになったとかいった
具体的な成果は見えてきません。
それどころか母はすぐに体調を崩し、まともにリハビリが出来ない日が沢山ありました。
その度に私は、あせって苛立って、ぶつけようの無い感情をもてあましました。
”早くリハビリしなければ、機能回復は望めないのよ!”
”なのに、そのためのリハビリがまともにできないなんて!”

四月から六月の末までは、私にとって本当に辛くて苦しい三ヶ月間でした。
地獄の始まりでした。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ
ハードルがいっぱい
2006年 04月 05日 (水) 12:12 | 編集
転院して一ヶ月近く経っても、相変わらず右手右腕はピクリともしません。
指の関節が固まってしまっていて、私が母の指を曲げようとしても
途中で止まってしまい曲がりません。
それに左手と較べるとかなり腫れていました。

OTのリハビリは
・ 右手の腫れをひかせる事
・ 指の関節を柔らかくする事
その二つを目標に行われていました。
まずそれをしなければ、命令が指先に伝わっていたとしても
動きとなって表れないという事でした。

見た目に腫れているだけでは無くて、この頃から母は
右手や右肩が痛いと言うようになりました。
「この痛みは片麻痺にはつきもので、ある程度はどうしようもない」
「時間が経てば少しずつ楽になる」
「でも痛みが強ければリハビリのストッパーになってしまう」
そうOTの先生は言われました。

母の右手右腕は”動くようになる”という目標よりもずっと手前に
いくつもの高いハードルがありました。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ
ベアー
2006年 04月 04日 (火) 10:52 | 編集
一人部屋とは言っても本来は二人用の病室で、今はここに入る患者さんがいないので
とりあえず一人で使えるという事でした。

STの訓練はこれまでと同じように、病室のベッドの上で行いましたが
母は声があまり出なかったので、大きな声を出す練習もしていたのですが
これで同室の患者さんに遠慮しなくてもよくなりました。
訓練中ではなくても、有名な俳句を言わせたり、歌を歌わせたり
ヒマをみつけては私が積極的に母に喋らせることができる様になりました。

最初の二ヶ月程は、STの先生がカードを見せて
母がカードに書かれた絵を見て、それの名前を答える、という事の繰り返しでした。
カードには野菜、身の回りのもの、動物など色々種類がありました。
まずほとんど答えられないのですが、ある日母が
「ベアー」
と言うのが聞こえました。
少し離れた所で耳だけ向けていた私は、あわてて母の顔を見ました。
「クマ」が出てこないのに「ベアー」は出るのです。
その次には
「アリゲーター」
そして
「タイガー」

日本語と英語が収納されているのは、脳の別々の場所なのだなー
と感心しました。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ
不安
2006年 04月 03日 (月) 11:18 | 編集
日中は必ず私が母の側にいるので、トイレには私が車椅子で連れて行きました。
夜はベッド脇に置かれたポータブルトイレです。

ナースコールを押すと看護師さんか介護士さんが来てくれて、ポータブルに座らせてくれます。
「終わったらまた鳴らしてね」
と言って出て行き、母がまたナースコールを鳴らすと
誰かが来てベッドに戻るのを助けてくれます。

ある朝病室に行き、母の顔を見ると額の片側にガーゼが当ててあります。
どうしたのかと聞くと、夜のトイレの時に転んだと言います。
心配になって、朝一番に来られたPTの先生に言うと
「確認してみます」
とすぐに出て行かれました。
どうやら用を足した後、寝ぼけていて一人でベッドに戻ろうとしたか
座ったままでバランスを崩して、倒れてしまったらしいとのことでした。
母に詳しくたずねてみても
「よくわからないの。寝ぼけてたのかも」
額はちょっとコブができた程度で、OTの先生もリハビリ時に
身体をあちこちチェックしてくれましたが、問題はありませんでした。
母が倒れた時、向かいのベッドのCさんが気付いてナースコールをして下さったとの事でした。

転院間も無い四人部屋で、このような事があったため
OTの先生が一人部屋に移ることを奨めて下さった時、不安がありました。
寝たきりの患者さんもいる四人部屋は、トイレの要請回数も多いし
体位交換などのため頻繁に人の出入りがあります。
この度の様に、何かあっても同室の方が気付いて下さることもあります。
その時一人部屋に入っているのは
自分のことは自分でできる”軽症”の患者さんばかりでした。

“また一人で倒れたら…”その不安をOTの先生に伝えると
「○○さんのトイレの介助者は途中で部屋を出て行かないで
 終わるまでカーテンの外で待機させるようにします」
「スタッフ全員に徹底させます」
と言ってくれました。

母の一人部屋生活が始まりました。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ
OTの先生
2006年 04月 02日 (日) 13:23 | 編集
OTのリハビリは、PTに較べると静かなものでした。
なにしろ母の右腕から下は、ピクリとも動かないので
ベッドで横になり全身を調整するだけだからです。
右手の訓練のようなものは何一つできません。

「体のどこが腕や指と繋がっている」
などOTの先生は、色々と説明しながらやってくれましたが
最初の頃は、いつ右手が動くようになるのか
私はそればかり気になっていました。

OTの先生は、父と私がこの病院を見学に来た時に対応してくれた人で
回復期リハビリ病棟のリハビリ責任者でした。
母の身体の機能のレベルを正確に把握していて
PTやSTの先生や婦長さんなどと連携をとって
「○○さんのトイレの介助はこのようにして下さい」
「これはできるだけ自分でやらせて下さい」
など要請してくれたようでした。

ある日PTのリハビリ中、母が頭がフラフラすると言って
リハビリが中止になった事がありました。
次の日も同じような状態だったので、他の先生や看護婦さんは
「風邪かしら」と熱を測ったりしたのですが
OTの先生はPTの先生からその話を聞き、すぐに担当医の所へ行き
母に眠剤が出されている事を聞いてきてくれました。
「○○さんが夜眠れないと言われたので、眠剤を出したようですが
 このように昼間にも影響が出るとリハビリができなくなります。
 眠剤は辞める方向で、夜眠れない原因を取り除きましょう」
父と私にそう言われました。

まだ頭もハッキリしない、言葉も不明瞭な母に根気よくインタビューして
「お隣のベッドのBさんが夜中も叫ぶので何度も目が覚める」
という事を聞き出してくれました。
私は母が夜眠れていないと言う事も、眠剤が出ていると言う事も知りませんでした。

OTの先生の提案で、母は一人部屋に移ることになりました。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ
 
みんな痛い
2006年 04月 01日 (土) 22:11 | 編集
母の隣のベッドの患者さんは、80代の女性で
娘さんが、仕事を終えてから夕方毎日来られていました。

そのBさんはその頃はほとんど寝たきりで、リハビリも全てベッドの上
食事もベッドで背を起こして、看護婦さんか介護士さんに
食べさせてもらっていました。
認知症も入っているようで、昼と無く夜と無く
「○○まさえ~。○○まさえを呼んで下さい~」
「まさえちゃん~。痛い~、痛い~」
と弱々しく叫んでいました。

私はとても気になって、何度かナースステーションに
看護婦さんを呼びに行ったことがあったのですが
母の向かい側のベッドの患者さんのCさんが
「放っておいたらいいよ!Bさんは甘えているんだ!
 痛いのはみんな同じ。みんな動けなくてみんな痛いんだから!」
と私に言われました。

Cさんは母より少し年上の60代半ばの女性で、数年前に脳出血で倒れ
この病院の介護病棟やリハビリ病棟を行ったり来たりしながら
併設の施設が空くのを待っていると言う事でした。
Cさんもほぼ寝たきりで、身体を起こすことも寝返りをうつこともできません。
食事は車椅子に乗せてもらって食堂に行きますが、身体がずれないように
座っているのがやっとという感じでした。ただ右手だけはよく動くので
日中はほとんど本を読んでいました。寝たまま右手だけで文庫本を読むのです。

数ヶ月後、母がわりと喋れるようになってから聞いたのですが
「泣いてもしょうがない。誰を恨んでもしょうがない。
 自分が病気になったのだから。誰のせいでもないよ」
とCさんは、転院して来たばかりの母を向かい側のベッドから慰めてくれたそうです。

Cさんのご主人も新入りの私達にとても良くしてくれました。
その後母が病室を替わってからも、Cさんが病棟を替わってからも
時々私は母を車椅子に乗せてCさんに会いに行きました。
それは、母の退院まで続きました。


↓ランキングに参加しています。

にほんブログ村 病気ブログへ
copyright (C) お母たまと私 -母と娘の脳卒中リハビリ日記 外伝- all rights reserved.
designed by polepole...

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。