お母たまと私 -母と娘の脳卒中リハビリ日記 外伝-
2004年2月に脳卒中(脳出血) で倒れ右片麻痺になった母と私の七ヶ月間にわたる リハビリの記録と、それからの事。
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歩く練習の始まり
2006年 03月 31日 (金) 21:41 | 編集
一日のリハビリは
午前中PT一回OT一回。
午後からST一回PT一回OT一回です。

OTとSTは病室で行い、PTは二日目からは病棟の端にある
病室を二つ繋げたくらいの大きさのリハビリ室で行いました。

バーは使わずに、母の左わきの下にPTの先生が右腕を入れて
抱えるようにして、一緒に歩く練習をしました。
すると右足を引きずりながら、先生に引っ張られながらですが
なんとか歩いているような格好になりました。

救急病院ではバーの間を、PTのお姉さんに右足を足で押し出してもらいながら
歩くというよりも、ただ移動するという感じだったので
“抱えてもらうと歩けるんだ”とちょっと感動しました。
(ここからがまた果てしなく長いのですが…)

10メートル位の距離を2往復して終わりです。
歩く前と歩いた後には必ず、脈を測ります。
母は少々脈が多くらしく、あいだで割と長い時間休憩をとってくれていました。
その間はおしゃべりの時間なのですが
母の言う事はなかなかPTの先生には伝わりません。
その度に私が代弁していました。


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食堂デビュー
2006年 03月 30日 (木) 20:58 | 編集
この病棟では、車椅子に座れる人は
病棟の真ん中にある食堂で食べることになっていました。
やはりお年寄りが多いですが、いろんな人がいました。

車椅子に座ってはいるものの、上半身はなんともなさそうなおばあさん。
背もたれの長い車椅子にとりあえず座っているものの
自分では食事をとれず、介護職員に食べさせてもらっている人。
聞き取りにくい大声で奥さんに喋りかけながら
麻痺した右手でなんとかお箸を操っている男性。
それから"どこが悪いの?"と聞きたくなるような人たちもいました。
普通にスタスタ歩いて、喋れて手も動いている人。

食事の時に家族が付き添っているのは
私の母と大声で喋る男性の二人だけでした。
その男性は50歳位で、朝とお昼は奥さんが夜はお母さんが来ていました。
なぜあんなに大声で喋るのだろうと思っていたのですが
後から、声の大きさをコントロールできないのだと知りました。
杖無しで歩けるし、右手もお箸を持てる程上手に動くのに
その男性は顔の右側は少しゆがんでいました。

ここは回復期リハビリ病棟なので、発症や事故から三ヶ月以内。
そしてここに来てから、長くても六ヶ月の人たちばかりなのに
本当に一人一人の症状は様々でした。


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顔合わせ
2006年 03月 29日 (水) 11:21 | 編集
STは女の若い先生でした。
「言語療法は個室でやり、STと患者以外入ることはできない」
などと知り合いから聞いていたのですが、母のベッドでやりました。
いつもニコニコしてとても感じのいい先生です。

最初の日はテストがあったのですが、私からすると壊滅的な結果のように思えました。
でもSTの先生は中程度ですと言われます。
救急病院で、担当医に
「出血量は中程度なのですが経過があまりよくありません。手術しましょう」
と言われた時の事を思い出しました。まだあれから一ヶ月も経っていません。
「みんな最初は中程度って言われるけど、結局それはどういう事?
 どれくらい治るものなの?」
でも私は先生には聞けませんでした。

PTの先生はこちらも若い男の先生でした。
この先生はあまりお喋りが得意ではなさそうで、シャイな感じの先生でした。
初回はベッドの上だけのリハビリでしたが、次回からは同じ階にある
小さいリハビリルームへ行って少し歩いてみましょうと言われました。

二人ともとても優しく母に対応してくれました。
母は二人を気にいったようで
「若いね~優しいね~」
としきりに言っていました。
自分の子供よりもずっと若い人達にみてもらうのが、ちょっとくすぐったかったようでした。


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新しい病院へ
2006年 03月 27日 (月) 18:00 | 編集
A病院は、外来、入院棟、介護病棟、回復期リハビリ病棟、デイケア施設
老人保険施設、特別養護老人ホームなどが同じ敷地内にあり
母は敷地の端にある、比較的新しい病棟の三階の四人部屋に入りました。
この病棟の三階が全部、回復期リハビリ病棟でした。

母のベッドは廊下側だったので
窓側の患者さんがカーテンを引いていると、昼間でも少々薄暗くなりました。
同室の患者さんは、80歳代の方が二人と母より少し年上と思われる方が一人です。
事前に見学に来ていた私も、ここはやはり老人病院なのだなと実感し
気持ちが沈みました。来ておられる家族の方が、母と同じ位の年なのです。

60歳になったばかりの母が自分の親くらいの年の
寝たきりのお年寄りと同じ境遇になるなんて。
母が不憫でなりませんでした。
母も今にも泣きそうなのをこらえているような、変な顔をしていました。

午後からリハビリ責任者のOTの先生が来られました。
「思っていたよりも、ずっといいですよ」
「内反足があると聞いたので心配していましたが、これは全く問題ない程度です」
「杖を使えば、きっと歩けるようになりますよ」
「○○さんが一日でも早く、ご自分の事がご自分で出来るようになって
 お家に帰れるようになるのをお手伝いします」
「頑張らなくていいです。焦らずに○○さんのペースでやりましょう」

そう言われて、母の顔つきが変わりました。
目をパッチリ開いて
「お願いしますっ」と言うではありませんか。
さっきまでは今にも死にそうな顔をしていたのに。

"治りたい。出来る限り元の身体に戻りたい。家に帰りたい"
と一番願っているのはやはり母自身なのだ、と私は改めて思いました。


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転院の日
2006年 03月 26日 (日) 20:17 | 編集
転院の日、朝10時にA病院の救急車が迎えに来てくれることなっていました。
病室の私物は全て父の車に積んで、父は後からA病院に一人で来る事に。
私は母と一緒に救急車に乗ります。

そろそろ迎えが来るかなと思っていると
ハァハァと息を切らした社会福祉士の男性が病室に来られました。
退院までにお知らせしておかなければいけなかった事がまだでした
お時間を下さい、との事。
近くあるカンファレンスルームに行くまでの間にも
何度も何度もお辞儀をしてお詫びを言われます。
とても腰が低くて熱心な方なのです。

その時言われたのは
・ 障害者手帳は症状が固定してから半年後からなど、申請日に制限があり
  申請しても三ヶ月位かかるが、介護保険は今すぐに申請でき、一ヶ月くらいで届くので
  すぐにでも申請する事をおすすめします。
・ この病院の治療費は高額療養費制度を使うと、普通の家庭であれば
  自己負担は7万円位になります。それ以上は市が支払ってくれます。
・ 最初に全額病院に支払って、後から市に払い戻してもらってもいいですが
  貸し付け制度を使えば、最初から自己負担分だけで済みますので
  そちらをお奨めします。

それから
「ご実家とは市が違うので、もしかしたら少し違う部分もあるかも知れませんが
  何かありましたらどんな事でも、いつでもご相談下さい」
と言ってくれました。

高額治療費制度の事は知っていましたが、貸し付け制度は知らなかったので
とても助かりました。まとまったお金を一時的にでも用意する必要が無くなりました。

父はこの社会福祉士の方をとても気に入っていて、本当にどんな事でも相談していました。
後から聞いたら"そんな簡単なことまで?"と思うような事まで。

母は実家から車で45分かかるこの病院に、今でも定期的に検診に通っています。
家に帰ったら、家から近い病院に主治医を替えるのが普通です。
それに担当医は大学病院からの派遣なので、もう何人も代わってしまっているのです。
でも父がこの社会福祉士さんを気に入って、病院を替えたがらないのです。
「仕方が無いの、お父さんがね」と言って母ももう諦めているようです。


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いちごオーレ
2006年 03月 25日 (土) 19:25 | 編集
転院の日も決まり、救急病院での最後の一週間は
なんとなくのんびりと過ごしました。
田舎に帰って初めて、緊張が取れたような気がしました。

毎朝五時半に起きて、六時過ぎには家を出る。
一日付き添い、夕食を食べさせてから夜八時に病院を出て
夕食の買い物などをして、家に着くのは九時過ぎ。
真冬の二月に、突然そんな生活に飛び込みましたが
それももうすぐ終わると思うと、感慨深いものがありました。
そんな訳はないのに、永遠に続くかのような気がしていましたから。

母が一命をとりとめ、手術をし、初めて口から食事をし
初めて立ち上がった場所を離れる事に
嬉しいのだけれど、ちょっと淋しいみたいな変な気持ちでした。

毎朝まだ寝ている母の耳元で
「おはようございます。今日のパンツは何色ですか?」
と言って起こしたりする事もなくなるのだなぁと
変な事を残念に思ったりもしました。
(「ピンクよっ!」なんて言ってくれるようになるまで続けたかったのです)

救急病院で過ごす最後の週末。
いつものように、宗方コーチ(ただし65歳)は
一階のガランとした外来ロビーで、母に立つ練習をさせました。
その帰り、エレベータ横にある自動販売機を見て母は
「のみた~い」
と言いました。モチロン私にだけわかる発音で。

倒れて以来、母が初めて私たちに所望したのが
"いちごオーレ"でした。
そんな飲み物、それまでほとんど飲んだ事は無かったのに。
"こんなものでいいなら、一生分でも買ってあげる"
と心で呟きながら、硬貨を取り出したのを覚えています。
母は今でもいちごオーレが大好きです。


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決めました
2006年 03月 24日 (金) 20:20 | 編集
結果的に父と私は、実家から近いA病院の回復期リハビリ病棟を
母の転院先として選びました。

特に”コレだ!”という決め手はありませんでした。
どちらの病院にも一長一短があり
“あちらのアレがこっちにあったら…”
“アレとコレが合体したらいいのに…”

離れた場所にある二つの病院を一日で回り、救急病院に帰る車の中で
県内に他にめぼしいリハビリテーション病院が無いなら
他県にも候補を広げようか、とまで考え始めていました。

すると父が運転席で言いました。
「○○子(母)は何でもくよくよ悪い方に考えて、すぐにペチャンコになる。
 あいつにあのリハ専(県内随一)は無理だ。やる気が無くなったら元も子もない」

確かに県内随一のリハ専門病院は、リハビリスタッフが少々スパルタ気味で
患者が必死でスタッフについていっている様に見えました。

「わしやお前のような性格なら、リハ専でバリバリやったほうがいいだろう。
 ナニクソーッと奮起するだろうからな」
「?」
「○○子(母)や○○男(弟)なら、A病院みたいな所でゆっくりやってもらわないと
 これから先、何ヶ月もリハビリを続けるのは難しいだろう」

父よ!!!
あなたと私が同じ性格???
意義ありっ!!!

意義を申し立てる前に、父の言った事を考えてみました。
私の性格はともかく、母の性格については確かにその通りです。
だからこそ、母が泣いて嫌がっても鬼コーチになると決めたのでした。
私は次のリハビリ病院でも、ずっと母についているつもりでした。
娘も鬼、リハビリスタッフも鬼では、母はリハビリをしなくなってしまうかもしれない。

一晩考えて、父に言いました。
「A病院でいいと思う。地域連携室に行ってお願いして来て」


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社会福祉士
2006年 03月 23日 (木) 21:00 | 編集
母の状態は相変わらずで、リハビリできたりできなかったり。
いい話、嬉しい話はどこからも入って来ません。

私は転院先を決められないまま、2~3日悶々としていましたが
“実際に見ていないから、説明を聞いていないから決められないんだ”
と思い、母を父に頼んで1階の地域医療連携室へ行きました。

前に、父が話を聞いてもらっている事を伝えると
「納得がいくまで何度でも相談に来て下さい」と言ってくれました。
社会福祉士は2人で、1人は30歳くらいの男性。
もう1人は40代の女性で、元看護婦ですと自己紹介されました。

やはりリハビリ専門病院は、県内で実績があるのは隣市の病院しか無いという事。
ここ何年かで、あちこちに中規模のリハビリ専門病院ができているのは
情報としては知っているし、資料ももらっているが
この病院からはまだ転院した患者はいないという事。
A病院からも”回復期リハビリ病棟”を作ったという情報はもらっていたので
父に紹介した。という話をしてくれました。

父が見に行った、2つの病院の間で迷っている。
専門家の立場から見たらどちらがいいと思うか、と聞いてみると
「A病院がどんなリハビリをしているかは分かりませんが母体は老人病院ですよね。
 お母様はまだお若いので、リハ専門病院でできるだけの機能回復を目指した方が
 いいのではないかと思います」
との答えが返ってきました。

その上で、まだ時間はあるのでもう1度
あなた自身がが両方の病院を見に行かれてはどうですか?とも。
「何度でも納得するまで、質問し見学して当然です。
 大切な家族を預けるのですから。もう1回予約を取りましょう」

私は、今度は自分の目で2つの病院を見に行くことになりました。


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老人病院
2006年 03月 22日 (水) 18:25 | 編集
実家と同じ市内の2つの病院は、どちらも老人病院として有名なところでした。
父はこの2ヶ所ならば、郊外にあるA病院の方がいいと言いました。

・ 回復期リハビリ病棟は、一般の老人病棟とは別の病棟にある。
・ 面接を受けに行く必要は無い。必要な情報は病院同士でやり取りし
 ケアワーカーの方が、患者に会いに来る。
・ その結果によって転院できないと言う事はない。
 基本的に発病して3ヶ月以内であれば誰でも受け入れる。
・ リハビリは基本的に病室内および廊下などで行う。
・ リハビリは患者の必要に応じて1日に複数回行う。
・ 土日祝日は休み。
・ PT11人、OT8人、ST4人。
・ 病室は1人~4人部屋。
・ 元々が老人病院なので年配の患者が多い。
・ 看護婦、スタッフの感じは良かった(皆挨拶をしてくれた)。

父に対応してくれたのはケアワーカーで
その後リハビリ責任者のOTに話を聞いたそうです。
それからまた、ケアワーカーに病棟内を案内してもらったと言います。
良い点としては、面接に母を連れて行かなくていいことと
リハビリの回数が多いこと。
悪い点としては、老人が多いため活気が無く淋しい感じがする。

父は、母の転院先はこのA病院でいいんじゃないかと言いました。
どちらにも一長一短がある。それならば家から近いほうがいいと。
県内随一のリハビリ専門病院は、現在入院している救急病院よりも
さらに実家から遠く、車で1時間ちょっとかかります。
A病院ならば車で20分です。

父のために部屋を用意して、ケアワーカーとOT両方が対応してくれた
と言う点には私も好感が持てました。

“でもあっちは県内随一なのよ?リハ専門病院よ?”
“市内のもうひとつの病院は?”
“A病院は老人病院じゃないの。そこに行くと聞いたらお母さんは泣いちゃうよ!”

私は見てもいない病院の間でグルグル迷っていました。


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リハビリ専門病院
2006年 03月 21日 (火) 14:42 | 編集
次の日父は一人で、隣市のリハビリ専門病院を見学に行きました。
地域医療連携室から連絡してもらい
リハビリの責任者に話を聞いてくるとの事でした。

知り合いに、10年以上前に40代で脳出血に倒れ一週間意識が無く
親戚を呼んでおいて下さいとまで言われたのに、現在は外から見る分には
全く健常者と変わらない生活をしておられる男性がいて、その方とご家族に
「PTとSTとOTの数。そしてそれぞれが毎日リハビリをしてくれるのかどうかが重要」
だと私と父は聞かされていました。

帰ってきた父によると
・ かなり大きな病院である。
・ リハビリは1階のリハビリルームでやる。
・ リハビリは基本的に毎日行う。土日祝日は休み。
・ PT18人、OT16人、ST3人。
・ 病室は2人~6人部屋。
・ 事故などによる若い患者も多い(だからなのか自動車の教習コースもある)。
・ 廊下で会った看護婦、スタッフの対応が良くなかった(挨拶をしなかった)。

父の対応をしてくれた担当者はPTの親玉のような人で
忙しいからと一階のリハビリルームで、患者のリハビリをしながらの説明だったそうです。
それに対しては、父は別段不満には思っていなかったようでした。
実際のリハビリの様子も見ることができた、と言っていました。

“ちゃんと地域連携室を通し、予約をして時間通りに行ったのに仕事をしながら?”
会ってもいない担当者とリハ専門病院に、私はちょっと不満を覚えました。
父が不満の、看護婦さんやスタッフの挨拶の話は気になりませんでした。
父の無愛想でエラそうな態度に敬遠されたか
父の気に入るようなバカ丁寧な挨拶では無かっただけだろうと
気にしませんでした。

その次の日父は、今度は実家と同じ市内にある二つの病院に
見学に行くことになりました。


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県内随一
2006年 03月 20日 (月) 14:23 | 編集
三週間目に入った頃には、リハビリ病院の事が気になりはじめ
婦長さんに相談にのってもらいました。

・この救急病院からは基本的に隣の市のリハビリ病院にほぼ全員が転院している。
・隣の市のリハビリ病院は歴史があり、今でも県内随一のリハ専門病院である。
・そのリハ専門病院に入るには、病状データと共に本人を面接に連れて行く必要がある。
・面接は毎週水曜と金曜に行われていて、入院の許可が下りてもいつ移れるかは
 ベッドの空き次第。普通は早くて一~二週間かかる。
・もちろんそのリハ専門病院以外でも行きたい病院があれば、紹介する。
・詳しくは一階の地域医療連携室にて社会福祉士が相談にのる。

私は"本人を連れて面接を受ける必要がある"ことに驚きました。

昼間ともすれば眠くて起きていられなくて、リハビリができなくなる事もある母を
車椅子に座っていること自体が苦痛らしく、すぐベッドに戻りたがる母を
車に乗せて隣の市まで運び、面接を受けさせるなんて。
その上、入院できるかどうかは確実ではないなんて。

リハビリ病院による面接はごく普通の事で
「車椅子に乗れない」「面接を受けられない」「他に病気がある」
患者は、基本的にリハビリ病院には入れず、他の治療重視または療養型病院に行くことになると、婦長さんは説明してくれました。

父がすぐに地域医療連携室に行き、相談してみることになりました。


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お詫びをここで
2006年 03月 19日 (日) 21:14 | 編集
何人もの方から、ぜひ母のお見舞いに行きたいと言われていましたが
救急病院での一ヶ月とその後のリハビリ病院での最初の何ヶ月かは
「まだあまり意識もはっきりしていなくて
 疲れも激しいので、もう少し元気になってから見舞ってやって下さい」
とお断りしていました。

母には一応毎回お伺いをたててはいましたが
母が正確に判断できないであろう事は承知の上です。
私たちが、こんな状態の母を誰にも会わせたくなかったのです。

みなさんは私たち家族のわがままを受け入れて
「最近のご様子はいかがですか?」
「まだお疲れが激しいかしら」
などと、根気良く何度も電話で尋ねて下さいました。
本当に本当に感謝しています。

いくら家族の一大事とはいえ、私は母の友人やご近所の方々に
「来てくれるな」と言い続けていた訳です。

今になって思うと、私たち家族だけで閉じるのではなくて
もう少し早くから母の具合を知ってもらい
一緒に回復を見守ってもらえば良かったのにと思います。

なんだか必死で余裕が無くて
「他の人には分からないわ放っておいて」
とばかりに、凄く狭量になっていたんだと思います。

あの頃、私がした事言った事、色々失礼があったと思います。
みなさまごめんなさい、許して下さい。
そして、これからも母と私たち家族をよろしくお願い致します。


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いちご?
2006年 03月 18日 (土) 20:17 | 編集
婦長さんが、絵本を貸してくれました。
図形や身の回りのものの絵が大きく描いてある、ホントに小さい子供用の絵本です。

○と△と□が描いてあるページを見せて
「四角はどれ?」と聞くと
「*#‘&¥~??」と呟いて、丸を指差します。
「青い色のものはどれ?」
「あ&“%@~っ!」
首をかしげながら赤い丸を指差します。

「言語の方が体よりも時間がかかります」
と主治医の先生から聞いていましたが、その肝心の体の方も
「今日は辞めておきましょう」
とリハビリの先生に言われないように、昼間目覚めていられるように
体調を管理するのが精一杯というところで、何ができるようになった
と言えるレベルではありませんでした。

自転車をみせて、コレなーに?と聞くと
「いぁ@$っ~#゜“~う?*:~っ!!」
ちょっと興奮して、”知ってる、家にある!”と言いたげでした。
でも出てきた言葉は
「いちご?」(私だけにしか解からないけれど、聞き返すと頷いたので、そのはず)

母のしゃべる内容は、救急病院にいる間の一ヶ月間は
私しか理解することができまんでした。
その私にしても判明率は50%そこそこだったので
母は本当にもどかしかったと思います。


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ブラブラ
2006年 03月 17日 (金) 23:12 | 編集
麻痺した右手右足は左側に比べると、腫れていて色も赤黒く変色していました。
おまけにピクリとも動きません。
右肩は脱臼して、触ってみると骨との境が段々になっていました。
麻痺して腕を動かす事ができないと、こうなるのは普通の事だと言われました。

脳出血や脳梗塞で腕が麻痺すると、腕が肘から内側に曲がって
固まってしまう患者さんが多いらしいのですが(「拘縮(こうしゅく)」と言うそうです)
母は逆にダランとしたままで、指先まで完全に弛緩した状態でした。

今となってみれば、脱臼くらいなんて事無いと思えるのですが
その当時は、これからリハビリをしていく上でこれが障害になったらどうしよう。
麻痺していてよく分からないだけで、本当はすごく痛いんじゃないだろうか。
と心配でたまりませんでした。

「三角巾で吊ってもいいですよ」
看護婦さんにそう言われ、売店で買った三角巾でどうにかこうにか
母の右腕を吊ってみました。
小学校の家庭科の時間以来でした、三角巾なんて。
脱臼のためには三角巾はほとんど役に立ちませんでしたが
トイレに座る時、右手がブラブラして股の間にすっぽりハマってしまうのは
防げるようになりました。毎回ちょっと可笑しかったのです。

母は現在も右肩は脱臼したままですし、右手は未だにピクリともしません
三角巾をしていないので、時々トイレで邪魔になるそうです。

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また臭い話
2006年 03月 17日 (金) 13:20 | 編集
ポータブルトイレの中身は、定期的に看護婦さんが回って来て
捨てに行ってくれていました。
でも二日目からは私がやる事になりました。
母が匂いに我慢できないと言うのです。
蓋を閉めていればほとんど臭いはしないのに…

自分でしておいて、終わってベッドに座るとすぐに
「クサイクサイ(と言う意味の宇宙語)」と言い
左手で窓を開けるように指示します。
しょうがなく私は窓を開け、中身の入ったバケツを持って処理室に捨てに行きます。
部屋を出る時「ドアも開けたままで行け(と言う意味~)」とも言います。

処理室は完全にバックヤードで、基本的に看護婦さんしか入れません。
使用済みオムツを捨てる場所があり、ポータブルの中身を捨てる便器があります。
便器にバケツの中身を流し、側にある流し場でバケツを洗い
最後に臭い消し&消毒用のスプレーをバケツの中にスプレーします。

看護婦さんは、病室からポータブルのバケツを持ち出す所から全ての作業を
使い捨ての手袋をして行います。

すぐに母の部屋に、私専用の使い捨て手袋一箱が届けられました。

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軽いけど重い
2006年 03月 16日 (木) 14:21 | 編集
なんとか全介助ですが、車椅子に乗り移れるようになったので
個室にポータブルトイレがやってきました。
それとともに、分厚くて大きい赤ちゃんのようなオムツは卒業です。
薄めのはかせるタイプのオムツに変わりました。
寝巻きも浴衣タイプから普通のパジャマに。

私は朝食の前から夕食の後まで、毎日べったり母についていたので
母のトイレの世話は全部私の役目になりました。
オムツが濡れる度にナースステーションに行って
交換をお願いしなくてもよくなったのは気が楽でしたが
今度は肉体的に辛くなりました。

まず母はトイレの回数が多いです。
それにウンチの場合は、便秘気味なのかお腹に力が入らないのか
とりあえずトイレに座るのですが、出ないと言ってはベッドに戻ります。
でもまたすぐに
「出るかもしれない(という意味の宇宙語)」と言い出し
またポータブルトイレに座ります。

母は小柄で体重も45kgしかないのですが、乗り移れるとは言っても
ベッドに座った状態の母のパジャマのスボンのゴムを両手で握って
私が持ち上げるようなものでした。

あまりの重労働に、一度父にやらせてみました。
トイレを置く位置から、介助者の足の位置、母を持ち上げるタイミングまで
詳しくやってみせて教えたのですが、うまくきませんでした。
力があるので、どうしても力任せに母を引きずろうとしてしまうのです。

という事で、やっぱり一日十回以上のトイレへの乗り移りは
最後まで私の仕事でした。

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主治医との相性
2006年 03月 15日 (水) 12:37 | 編集
母が一ヶ月間入院していた救急病院は、その地域にある古い総合病院でした。

「この病院では旧世紀の治療しかできません」
主治医の先生はよくそう言われました。
私の実家の近くには、国立大学医学部付属の大学病院があります。
主治医の先生もその大学病院から派遣されていたはずです。

手術の時も私たち家族に
「ご希望であればそちらへ移して手術されてもかまいません」
と言われました。

最新の医療技術を持った大学病院で手術してもらったほうが
良かったのかもしれません。
もしかしたら、ほんの少しでも予後がよかったかも知れません。
それに、この病院は家から車で45分かかるけれども
大学病院なら歩いて20分です。

でも私たち家族は、意識が朦朧として眠ってばかりいる母を
救急車で45分かけて移動させる事に不安がありました。
それに大学病院へ移ったら、誰が主治医になるのかわからない。
もしも少しでもこちらが不安に感じる先生だったらどうしよう。
それで万が一失敗したら、事故でも起こったら。

「難しい手術ではありません」
「私は毎日のようにこの手術を行っています」
「こちらで手術されるのであれば、私が執刀します」
「全力で臨みます」
私たち家族は、そう言われた主治医の先生に母の手術をお願いしました。

私たちは最初からその先生に信頼感を持っていました。
話し方や態度など、受ける印象がイヤではなかったのです。

患者の家族には執刀医師の能力を知るすべはありません。
最後は印象やカンに頼るしかないのかもしれません。
私は、あの先生にお願いして良かったと今でも思っています。

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宗方コーチ(65歳)
2006年 03月 14日 (火) 20:51 | 編集
土日はリハビリはお休みです。

普通なら"お母さんも週末はゆっくり休んで"と言うのかもしれませんが
父と私は"鬼コーチ"になってしまっています。

土日は外来もお休みなので、1階のロビーには誰もいません。
広くて壁にバーが付いている場所を見つけて
父は母を車椅子に乗せて連れて行きました。
そこでバーにつまかって、しっかり立つ練習をさせるためです。
その頃にはリハビリルームで、歩きはしないものの
二本のバーの間で、車椅子から立ちあがる練習をしていたので
その代わりのつもりだったのです。

母の力の入らない右膝をつかんで
「ここにグッと力を入れて立つ!」
母の体を右側に傾けて
「右足に体重を乗せる!」
父は母の足元にしゃがみこんで、厳しい指示をとばします。
もちろんできない事ばかりです。
足自体の問題ではなくて脳の問題だからです。

そんな事は、それまでに読んだ沢山の脳卒中関係の本や
主治医の先生のお話でわかりすぎるほど父にはわかっています。
それでも
"リハビリを休んでいる二日の分だけ回復が遅れたら"
"体の機能が後退してしまったら"
と、やらないではいられなかったのでしょう。

どこまで理解していたかは分かりませんが
「アイッ」
と言って、母も指示に従う努力をしていました。
それ以来、リハビリ病院に移るまで
足の担当は父。口の担当は私。という分担ができました。


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アンア~ン
2006年 03月 13日 (月) 14:07 | 編集
父が母に読ませてみようと、アンパンマンの絵本を買ってきました。
"アンパンマンとなかまのゆかいなぼうけん"みたいな題名でした。

「アンパンマンって知ってる?テレビでやってるよね」と言うと
「○×#!~っえう~」と言いながらうなずきます。
それではとページを開くと、文字は縦書きで左右に数行ずつあるだけです。
ここから読んでね、と最初の行を指さして教えると
ひらがなを一字ずつ読み始めるのですが、どうしても「さ行」や「ら行」が読めません。
「さ」や「り」が出てくると首をかしげてウニャウニャ言った後で
しっかり飛ばして読み進めます。

少し物語が進んだところで
「今アンパンマンが助けに行くのは誰?」と質問してみると
キョトンとしてわたしの顔を見ます。
どうやらただひらがなを読んでいるだけで、意味はさっぱりわかっていないようでした。
おまけにページが替わると、いきなり最後の行つまり左側から読み始めます。
母は物語の意味がわかっていないので、全く平気そうでした。

後から、右目が良く見えていなくてつい左側に視線がいってしまうのかもしれない
と思いました。
失語症とは、喋れなくなるだけではなくて、意味を理解することもできなくなるのだなと
最初に実感した出来事でした。

ペンギン坊やが北の海で、一人ぼっちで泣いている場面があったのですが
「アンア~ン」という泣き声だけは、母はとても上手でした。


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母の声
2006年 03月 12日 (日) 12:01 | 編集
亀の歩みですが、体のほうがちょっぴり進歩したかなと思うと
次は言葉の方が気になりました。

小さい声(でもプチ怪獣)なら出せるようになっていましたが
ムニャムニャムニャ、とまるで外国語のようにしか聞こえません。
本人はちゃんと喋っているつもりらしいので
私たちが母の意図を理解できないのがもどかしいようでした。

私にとって辛かったのは、手足よりこちらの方だったかも知れません。

倒れる数日前に母と電話で話したばかりでした。
電話で私と喋っている間に突然雪が降り始めたらしく
「まーすごい雪!」
「これはきっと積もるよ」
などと母の声はちょっと興奮していました。
私の田舎は雪が降ることはあっても、めったに積もったりしない地域なのです。

その時の母の声は、今でもちゃんと覚えています。
でも二年が経った今、もう私の夢の中でも母が障害者になってしまったように
時間と共に母の声も忘れてしまうかも知れません。

母の留守番電話の第一声はいつも
「はーい、お母さんです」 でした。
その録音を一つでも消去しないで取っておけばよかった。
以前の母の声が録音されたものは、一つもありません。
30年以上聞いてきた母の声は、二度と聞くことができなくなってしまいました。


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煩悩
2006年 03月 11日 (土) 12:21 | 編集
やっと車椅子への乗り移りができるようになると(もちろん全面介助)
一日一回リハビリルームへ行くようになりました。
最初は、台の上に寝て左足と左手を動かしたりするだけです。

救急病院のリハビリルームなので、いろんな患者さんがいました。
バイク事故の若者や、手の筋を痛めた小学生の男の子。
足のリハビリのために通院して来ているお年寄り。
もちろん脳卒中と思われる患者さんも沢山いました。

母と同じ片麻痺の患者さんでも、母のように頭を丸坊主にした人はいませんでした。
それを見ては
「ああ、あの人は出血や梗塞が軽かったのかも知れない」
左麻痺の患者さんを見ては
「あの人は左麻痺だから母と違ってベラベラ普通に喋れている」
(言語中枢は左脳にあるため。左脳が損なわれると右麻痺になります)
バーの間を歩いている患者さんを見ては
「あの人はどれくらいで歩けるようになったのだろう」

私には子供がいませんが
子供の成長や学校の成績を、よその子と比べて一喜一憂する親の気持ちは
こんなものなのかも知れないなと思いました。

初めて母以外の脳卒中の患者さんを見て
私は煩悩の塊になってしまいました。


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脳内モルヒネ
2006年 03月 10日 (金) 18:10 | 編集
母が倒れたと聞いた瞬間から、私はほとんど熟睡することができませんでした。

最初の三日くらいは文字通り一睡もできず
その後も随分長い間、寝付きが悪くて夜中に何度も目覚めました。
食事も普段の半分くらいしか喉を通りません。
眼の下にクマを作り、体重も一週間で3kg落ちました。
不思議な事に、それでも体は動くのです。気力もあります。

自分でも不思議でした。
毎日泣いていたけれど落ち込んでいたわけでは無いのです。
どちらかというと今まで経験した事がない位、ハイになっている状態でした。
所謂"脳内モルヒネ"が出ている状態なのだなと思いました。

完全に正常に戻るまで半年以上かかったと思います。
それまでは徐々に減ってはいったものの
どこか自分の感覚が、現実から離れている気がしていました。
新しく私の現実となった病院や田舎や母のことは大丈夫なのですが
それ以前の私の現実、私の住んでいた街や仕事や友人など
見なれた風景が以前とは違って見えていたのです。
何か一枚透明な壁が、私と周囲との間にはさまっているように感じていました。


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エースをねらえ
2006年 03月 09日 (木) 22:16 | 編集
それからの父と私は「エースをねらえ」の宗方コーチのようでした。

自宅から病院までは車で45分の道のりでしたが
私たちは7:30の朝食前には病室に着くようにしました。
主治医の先生に
「昼間寝ると夜眠れなくて眠剤を出さなければいけなくなる」
と言われたので、必ず父か私のどちらかが病室にいるようにして
昼間のうちは母を寝かさないようにしました。

"あいうえお表"を作って一字ずつ指差して言わせてみたり
(さっぱり言えませんでした)
スケッチブックにクレヨンで字や絵を書かせてみたり
(判別できるものはほとんど書けませんでした)
理学療法士の先生が帰った後、同じように母の手足を動かしたり
母が昔習っていた、ヨガのポーズを左足だけさせたり

母は時々嫌がって、声も出さずに泣きました。
なんて酷い娘だと思ったことでしょう。
でもその当時私は
「後になって、お母さんに縁を切られてもいいからやるんだ」
とギンギンに目がつり上がっていました。


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リハビリ開始
2006年 03月 09日 (木) 11:21 | 編集
個室に移って数日後。
リハビリのために理学療法士さんが来てくれました。若いお姉さんです。

最初はベッドに寝たまま麻痺した右手と右足をゆっくり動かすだけでした。
次の日には「床に足を下して座ってみましょう」という事になったのですが
母は体がユラユラして一人では座っていられませんでした。
また次の日には座るどころか、眠くてしょうがないらしく、体を起こす事もできなかったため
リハビリは中止になりました。

これができないと、車椅子に乗り移ることができません。
リハビリルームに行くことができません。
ポータブルトイレで用を足すことができません。

「無理しなくていいですよ。ゆっくりやりましょうね」
理学療法士のお姉さんはとても優しく母に話しかけてくれます。
でも私たち家族はそんな風にはできません。
少しでも麻痺が良くなるように、少しでも早くリハビリに入れるように
そのために手術をしてもらったのです。

穏健派の弟は東京に帰ってもういません。
「母が泣いてもわめいてもリハビリをやらせる」
強行派の父と私はそう決めました。


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オムツ
2006年 03月 08日 (水) 12:57 | 編集
母はICUを出てからも、一週間くらいはオムツだけの生活でした。
看護婦さんが定期的にやってきて替えてくれるのですが
母はそれまで待ってくれません。
回らない口で、身振り手振りで私にオムツを替えて欲しい事を訴えるのです。

「もう少ししたら点滴を替えに看護婦さんが来てくれるからその時に頼むよ。
それまで待ってね」
と言ってもどうしても聞いてくれません。
その度にわたしは、ナースステーションに行って
「すみません。母のオムツを替えてもらえませんか」
と頼みに行くのですが、それがとてもイヤでした。

救急病院の看護婦さんはものすごく忙しいのです。
廊下でも、声をかけるタイミングを失うくらい急いで歩いているし
土日などはあきらかに人数が少なく、みな髪を振り乱して働いています。
そんな中、さっき替えてもらったばかりなのにもう濡れたから
替えてくれとは言い辛いのです。
それも一日何回も。

母のオムツを替えてもらう時は、いつも病室から出て待っているのですが
一度だけ私が病室に泊まった日、その夜看護婦さんが一人しか来られず
あまりの大変さに私も手伝いました。
体を動かす事のできない患者のオムツを替えるのが
どれほど大変か思い知りました。
母は身長152cm体重45kgです。その時はもっと体重は少なかったはずです。
それでもこちらが唸り声をあげてしまうほどの重労働でした。


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怪獣みたい
2006年 03月 07日 (火) 10:01 | 編集
口から食事もできるようにはなりましたが
母は相変わらずほとんど声が出せません。

"あいうえお"を言わせようとすると
"だ~でぃどぅ~でぇ~どぉうおぅ~"

まるで地の底から這い出てきた怪獣の唸り声です。
あまりの悪声に私が笑うと、母も声を出さずに顔だけで笑います。
私を娘だと認識し、その娘が笑うから母も笑うのです。

「声も聞けない、姿形も変わってしまったけどこの人は私のお母さんなんだ
 世界のどこにも、この人以外にお母さんはいないんだ」

私は生まれて初めて、強くそう思いました。


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プリンを食べた
2006年 03月 06日 (月) 10:43 | 編集
手術は無事に成功しました。

翌日の午前中には、まだ頭の中に残っている血液を出すためのチューブを抜き
ガーゼで穴に蓋をしました。
そしてその日のうちにICUから出る事になりました。
相部屋が空いていなくて個室に移るしかありませんでした。
静かでいいのですが、一日7,500円別途にかかります。

この時点で、母が倒れてから一週間が経っていましたが
ここで初めて母の保険について調べなければならない事に気が付きました。
本当に間抜けな父娘です。

丸坊主の頭に白いニット帽をかぶって、少しベッドの背を起こしてもらった母は
相変わらずボーッとして半分眠ったようでした。
でも看護婦さんが
「○○さん、プリン食べられるかなー」
とプリンを口に入れるとゴクリと飲み込みました。
口から物を摂るのは倒れてから初めてです。

看護婦さんが残りの半分を私にさせてくれました。
母はプリンを飲み込むと、口を開けて次を待っています。
一週間飲まず食わずの痩せ細った体に丸坊主の頭は、本当に鳥の雛のようでした。


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丸坊主
2006年 03月 04日 (土) 18:57 | 編集
手術の日は午前中のうちに、頭を丸坊主にして検査を済ませてしまわなければなりませんでした。

母はすごく怖がりでヘタレなのです。
病院に行くと、それだけで死んでしまうような気がする
などと言って健康診断にさえ行きませんでした。
そんな母に
「頭の手術をするのよ」
「髪の毛を全部そらなきゃいけないの」
と伝えることは、まだあまり意識がはっきりしていないとはいえ
辛くてたまらない仕事でした。

母は私の言葉が分かったのか分からなかったのか
子供みたいに、うん、とうなずきました。
そんな母が不憫で、私の方が泣かないようにするのに必死でした。

手術は1時間半くらいで終わりました。


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意見の不一致
2006年 03月 03日 (金) 10:50 | 編集
難しい手術では無い。失敗率は限りなく小さい。
でも当然ながらまったくゼロではない。
手術をしたからと言って、出血による脳のダメージ自体は変わらないので
麻痺の程度が軽くなるわけではない。
ただし早くリハビリに入れるので、その分だけ予後が良くなる可能性はある。

父と私はその可能性に賭けたかったのです。
麻痺に関しては、ダメで元々です。でも弟は
「万が一という事もあるのに、そんな事は受け入れられない。
 麻痺が良くなるわけでもないのに頭に穴を開けるなんて」
と慎重路線を崩しません。
翌日、もう一度主治医の先生に時間を取ってもらい
手術のさらに詳しい説明と、こちらが考えている事危惧している事などを聞いてもらい
最終的に、弟も手術をする事に賛成してくれました。

30年以上姉弟をやってきましたが、こういう弟の考え方を知ったのは新鮮な驚きでした。
家族の一大事という時に、各々の性格が顕著に現れるものなのですね。
父と私の考えが似ていると言う事にも驚きました。


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手術しましょう
2006年 03月 02日 (木) 09:56 | 編集
○○さんくらいの出血程度なら、普通はこのまま自然に血液が吸収されるのを待つのですが
どうも経過が思わしくないので手術をしましょう。
割と簡単な手術で、金属のストローのようなモノを入れて血液を吸い取ります。
意識状態が良くなり早くリハビリに入れるので、その方がいいと思います。

母が倒れてから三日目。主治医の先生にそう言われました。

母の左脳の出血程度は中程度。そのわりに意識状態や麻痺の程度が重いそうです。
それに三日経ってもほとんと改善がみられないらしい。
母は昔からさりげなくヘタレでした。こんな事になってもまだ母らしい。

父と私は手術をすることに賛成でした。
でも弟は反対しました。
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