お母たまと私 -母と娘の脳卒中リハビリ日記 外伝-
2004年2月に脳卒中(脳出血) で倒れ右片麻痺になった母と私の七ヶ月間にわたる リハビリの記録と、それからの事。
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またね その2(ひとまず終了)
2006年 08月 30日 (水) 10:43 | 編集
私が病院を出る時間になりました。

「ほんとうに、ほんとうに、忘れものはないの?」
「あったら送って」
「ムリ!」

いつものように軽口を叩きながら、いつものように慌ただしく帰り支度をしました。
しめっぽいのはキライです。

荷物を抱えて、ベッドに座る母の前に立って
「じゃね!」
と言うと、母はとたんに変な顔になりました。
「また明日!」
とは、私ももう言えません。
しめっぽいのはキライなのに、自分がしめっぽくなりそうだったので
私は手を振りながら、思い切って母から離れました。
病室を出る時に振り返ると
母はこちらを見ていませんでした。
動く左手で、口を押さえて俯いていました。

いつもは夕食の準備で、割と慌ただしいはずの廊下に
不思議なことに、その日は誰もいませんでした。
長い病棟の廊下を、突き当たりまで歩いて
エレベーターに乗って外に出るまで、私は誰にも会いませんでした。
泣いている顔を見られなくて済むように
神様が配慮してくれたのかもしれません。

病院から駅まで自転車で十分程度。
電車で通い始めてから四ヶ月。
毎朝毎夕通った道ですが、もう通る事はないと思いました。
夕方五時を過ぎると無人駅になる、小さな駅にも
もう降り立つことはないでしょう。
二ヶ月前にゲットした、白くて働き者の可愛い自転車は
小さな駅の、駐輪場に置いてきました。
もちろんカギは外して。

“また誰かに拾ってもらえるといいね。お疲れさま、ありがとう”


翌日、私はお昼前の便に乗るために空港にいました。
七ヶ月の間に実家に溜まった私の荷物は、宅配便で送ってあったので
私はとても軽装でした。
長袖の黒Tシャツにジーンズにスニーカー。
ヒップバッグにリュック一つ。

お盆を避けた少し遅い里帰りから、一人戻る女に見えたかもしれません。
誰も私を、母の看病のため七ヶ月間実家に帰っていたとは思わないでしょう。
昨日までと今日からとで、全く生活が変わってしまうんだ、という事も分からないでしょう。
とても不思議な気がしました。

人は外から見ただけでは、全く分からないものだわ。
あそこで涼しい顔をしているお兄さんは
実はものすごい過去の持ち主かも知れない。
あのおばさんだって、実はこれから不倫相手に会いに行くのかも知れない。
向かいの美人さんなんて、自己破産した事があるかも…

アホなことを考えながら
空港ビル内のファミリーレストランで、たらこスパゲッティを食べ
そして母にメールを送りました。

“毎朝必ず電話してね。足プクプク(足のマッサージ器)とPTまでの間に”
“食堂まで、絶対に自分で車椅子をこいじゃダメ”
“吉岡さんか清水さんが通りかかって押してくれるまで、廊下に出て待っていなさい”

など、最後の最後の念押しです。
私はしつこいのでした。

返信は

『ながいあいだありがとう』

でした。

まだまだ平仮名&ワンセンテンスが精一杯の母でしたが
気持ちはバッチリ伝わりました。

二年前の九月の初旬でした。
真冬の二月に、弟その1と一言も言葉を交わさず、身動きもせずに座っていた
一時間半のフライトから、丸七ヶ月が経っていました。
この度の私は、淋しさとちょっぴり幸せな気持ちが半分半分で、飛行機に乗りました。


この後、母のメールテクは大幅にアップするのですが
そのお話は、またの機会に。
(実は、私が上達させたんじゃないのが、少々クヤシイのですよ!!!)


* **


今回で、七ヶ月間にわたる「母と娘の脳卒中リハビリ日記」は、ひとまず終わります。
読んで下さった皆さま、本当にありがとうございました。

書き上げられるとは思わなかったし、書き上げなくてはと思ったら
きっと始められなかったと思います。
“読んで下さっている人がいる”という思いが
この上無くズボラな私を、なんとかPCに向かわせてくれました。
感謝しています。

これからは、流れの中では書ききれなかった出来事や気持ち。
母が倒れた事によって起こった、良いこと悪いこと。
こうなって初めて分かった、自分や周りの人のこと。
もちろん「へんな母」のことも書いていこうと思います。
これからも、どうぞヨロシクお願いいたします。

そして近い将来、母の側に帰り
「母と娘のちょっと変な毎日」というタイトルのブログを、ぜひ書きたいと思います。
出来るだけ早く実現させたいと、日々邁進しておりますので
その日まで、お付き合い頂ければ嬉しいです。

それにしても、このブログのタイトルどうしよう…


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またね その1
2006年 08月 25日 (金) 23:30 | 編集
私が実家を引き上げる前の日。
いつもは病院に行かない土曜日でしたが、
今日で最後なので、私は朝から病院へ来ていました。
午後、母に三人連れのお客様がありました。

「あなたはどこかへ行っていなさい」
私は病室を追い出されました。
「色々お話があるのよ」
なんて言われて。

私は買ってきたお昼をまだ食べていなかったので
食事の時間が終わって、誰もいない食堂で一人
大画面テレビを見ながら、サンドイッチを食べました。

“追い出されちゃった”
“大丈夫なのかしら”
“ずっと座りっぱなしだと足が痛くなるのに”
“途中でちゃんとお茶飲むんでしょうね”
アンニュイなテレビドラマの内容は、全く私の頭には入って来ませんでした。

「明日帰られるんですよね」
「ふがっ!?」
今日はお休みのはずの、PTの先生(25歳男性)にいきなり話しかけられました。
「長い間ごくろうさまでした。向こうに帰られてもお元気で」

普段とても無口で、リハビリ中も人見知りをする母の方が
沢山しゃべっている位のPTの先生に、そんな事を言われて
驚いたのと有り難いのとお礼を言いたいので
私は立ち上がって、口をサンドイッチでモゴモゴさせながら
何度も頭を下げました。

もう昨日までに病院スタッフの皆さんには、ご挨拶は済ませてあったのですが
私の姿を見かけて、わざわざ話しかけてくれたのでした。
「あと二ヶ月間、ヨロシクお願いします」
私が言うと、PTの先生はちょっとニッコリしてくれました。

私は一時間も食堂にいたでしょうか。
母のお客様が帰って行かれました。
母はいったいどうなっているのかしら、と病室を覗くと
ちゃんとベッドに寝ていました。
「途中で疲れたから、寝て話していたの」

母はちゃんと自分からお客様に断わって、体勢を変えていました。
お茶も飲んだそうでした。
「ハイ」
と私に、貰ったお見舞いを渡します。

個室に移ってから一ヶ月半。
私はもうほとんど、母に何かをしてあげることはありませんでした。
全て母は自分で出来るようになってました。
長い間の私の一番の仕事だったトイレは、見守りだけになりましたし
私が病室にいれば、母は勝手に病室内を杖で歩く練習をしていました。

この一ヶ月半の間、私が母の病室でしていたことは
毎日桃を一個剥いてあげることと
お茶を入れてあげることくらいでした。
それと、アテネオリンピックを一緒に見ること。


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あらしのひる
2006年 08月 20日 (日) 23:00 | 編集
2004年の夏。
西日本は何度も超大型台風に見舞われました。

私は何度も、膝から下をグショグショに濡らして母の病室にたどり着きました。
電車が動かない日もありました。
そういう日はバスで通いました。
どうしても、バス停までも行けない日もありました。
あまりの暴風雨で歩けないのです。
物も飛んでくるので危ないのです。

病院も二度ほど停電しました。
もちろんすぐに復旧しましたが、その日のお風呂が無くなったりしました。
台風で何人もの人が亡くなった夏でした。

そんな、台風で私が病院に行けなかったある日
私は実家の二階でブラブラしていました。
ネットの掲示板で、地域の台風の状況を見ていたのですが
あちこちで
「もう雨戸がもたない」
「マンションの前の道路が河になって車が流されている」
「実家の地域に避難命令が出たけど、電話が繋がらない」
などなど、恐ろしい書き込みがいっぱいでした。

外は暗くて、風がゴーゴー鳴って、家もミシミシと音を立て始めました。
私は怖くて仕方がありませんでした。
ゴキブリも幽霊も怖くない私ですが
カミナリとか大きな音は苦手なのです。
私は携帯メールで、母にこの状況を訴えました。
このボロ屋は壊れるかもしれない。あなたが帰る場所は無くなるかも。
私も一緒に吹っ飛ぶかもよ。

『 もうすこしがまんしてね 』

私は少しの間、台風を忘れました。

「なんで出来ないのっ!!!」
「書いてあるじゃないっ」
「何がしたいの!」
「次はなんて書いていあるのっ!!!」
「そしたら、その通りにしなさいよっ」
毎日毎日、母が半泣きになるまでシゴイた甲斐がありました。

無理は承知の上でした。
それでも、私が帰るまでになんとかマスターさせようと必死でした。
きっと母も一生懸命返事を書いたのだと思いました。
何度も失敗したんだろうなと。

大変な目にあった2004年の台風でしたが
おかげでこんな思い出もできました。


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最後の特訓?
2006年 08月 18日 (金) 21:56 | 編集
お盆を過ぎました。
あと半月ほどで、母と私は離れ離れになってしまいます。
二月からこれまで、毎日朝から晩まで一緒だったのに…

回復期リハビリ病棟内は基本的に、携帯電話の持ち込みは禁止でした。
ですが十代の男のコは携帯を、二十代の女性は携帯とPCを
半ば公認のような感じで病室に持ち込んでいました。

私は携帯を買いに走りました(白い自転車で)。

ナースステーション前に公衆電話はあります。
手の利く患者さんが、自分でかけている姿をよく見かけました。
でも母にはムリだと思いました。
一人ではムリなら誰かに手伝ってもらえばいいのですが
きっと母は遠慮して、できないだろうと思いました。
でも携帯ならば空き時間に、自分でちょこっと使えます。

元気な時も母は携帯を持っていませんでした。
脳の一部が壊れて、未だに娘の名前もめったに言えない
住所も言えない、覚えられない母に
携帯の使い方をマスターできるかどうかは疑問でしたが
私はもう、決めてしまいました。
“毎朝、私に電話かメールを送らせる”

「すごーい!キレイー!」
買ったのは“ らくらくホン(グリーン)by docomo ”でした。
初めての携帯に母はちょっと興奮して、左手で開いたり閉じたりしていました。
「でも、わたしにできるかな…」
らくらくホンは、高齢者などのための携帯なので
普通の説明書以外に、薄くてとても簡単な“使い方ノート”が付いていました。
それでも母にはムリでした。

そこで私は
“これでできなかったらあなたは変態”ノートを作りました。
変態だと思われたくなかったら、絶対できるようになれ
という気持ちをこめました。

・ 娘に電話をかける時
・ 家に電話をかける時
・ 娘にメールを送る時
・ メールが来ているかどうか調べる時(一日一回やる)
・ メールを読む時

など絵入りで“ここまで書くか!”という所まで書きました。

久しぶりに、母と娘の特訓が始まりました。


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終わりが見えて
2006年 08月 11日 (金) 22:02 | 編集
9月初旬の退院のところを、2ヶ月延長してもらえましたが
その後はどうするか、OTの先生に聞かれたそうです。

「11月からはやっぱり隣の老健に入れてもらって
 春頃まで置いてもらえないかね。冬の間は寒いからねえ~」
父がのんきにのたまうと
「なにを他人事みたいに言っているの。
 私はもうここから家にかえりますよ!そのつもりでいてください!」
母がすぐに却下したそうです。
私が帰った後の夜の出来事だったそうです。
翌日、母からそれを聞いた時
「見たかった~!!!」
と私は心底思いました。

母が自分から“家に帰る”と決めたとは、ちょっと驚きでした。
それも父の意に反して。
これまで、先生方や私のいいなりだった母が
“11月までここで頑張って、その後はもう家に帰りたい”
“そうできるように一生懸命頑張ります”
と私たちに宣言したのでした。

それから母は私に言いました。
「だからあなたも予定通り、9月の初めには向こうに戻りなさいよ」
「もう充分にしてもらったから」
「あとは一人で大丈夫」

私が実家にいるのは“母がリハビリ病棟にいる間だけ”と決めていました。
それが2ヶ月伸びて
“どうしよう。11月までこちらにいようかな”
“私がいた方がいいよね”
“家に帰って落ち着くまで”
“でもそれじゃあキリが無いかも”
などと考えていた矢先でした。

”娘がいなくても頑張る”
”きっと大丈夫”
という自覚が母に生まれたのは、とても嬉しい事でした。
と同時に、なんだか淋しくもありました。
まるで永遠に続くかのように感じられた、母と二人三脚のリハビリ生活が
あと1ヶ月で終わるのでした。


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